アジアの内の日本 2021年1月号

無策ではない、感染放置策=「集団免疫」路線

若林盛亮 2021年1月20日

コロナ感染者は30万人を越えた。今回はわずか23日間で10万人増と感染拡大ペースが加速している。今年のお正月には帰省や初詣を控えた人も多いと思う。故郷の同窓の年賀メールにも「今年の正月に息子、娘は来ない」のだと。理由は「高齢者の父母を感染させたくない」から。

「コロナ第3波の危険」を言われても「GoTo感染拡大」策をとった菅政権が窮地に追い込まれ、あわてて緊急事態宣言を発令するどたばたぶりを示している。

政府は「無策」だと言われているが私にはそうじゃない、政府には放置策という策があるように思える。国民には公言できない策だから表だって言えないだけだ。

最近、「集団免疫」という言葉をあちこちで聞くようになった。ワクチン接種が始まる機運が出てきたからだろう。

ワクチン接種とは危険でない微量のウィルスや菌を人体に注入、いわば人為的に感染状態をつくって人体内に抗体をつくり免疫状態を生む医療法だ。ワクチン予防接種、これが出口戦略であることは誰も否定しないだろう。

問題はこのワクチンの出現という「出口戦略」のみに期待をかけ、発生当初からの感染封じ込めをやろうとしない政府の姿勢だ。安倍政権以来の後手後手、無策、愚策の繰り返し、今から見ればPCR検査も隔離も医療体制整備も怠り、「自粛要請」連発、公助なしの自助努力呼びかけのみ、果ては「GoTo感染拡大策」までやる。この政府のコロナ対策の本質は「感染放置策」としか言いようがない。その根底にあるのが集団免疫の考え方だ。

「集団免疫」とは、一度コロナに感染した者にはコロナ抗体ができる。そして抗体のできた人が集団の70%を占めるようになれば、集団免疫力ができたことになり、コロナを最終的に抑えられるとする方法だ。一言でいって「感染封じ込め」ではなく、感染者を増やすこと、「感染放置」を良策とする方法論だ。その結論は、たとえ感染してもその80%は無症状だから心配はない、肺炎症状の出た重症者に対してのみ検査、治療をすればよいとなる。

安倍政権、菅政権と続く政府のコロナ対策はほぼこれに沿っていると言っても過言ではない。

米国や日本でも当初、政府関係者は「老人には危険だが、若い人、健康体はすぐ回復するので問題はない」とアナウンスし、無用な不安を募らせるなと国民を牽制した。米テキサス州副知事などは「私たちの祖父母は経済のための(コロナによる)自己犠牲をいとわないだろう」とまで言い切った。多少の犠牲は仕方がない、多くは放っておけば治るのだから、コロナ封じのために経済を犠牲にする必要はないという打算が基底にある。

「集団免疫」信奉者の田中宇さかい氏は「最悪の場合」と断りつつも「(感染放置を続ければ)持病持ちや高齢者が減り、残った人類の重篤な発症者が減る。人類の平均寿命が短くなるだろうが、人類は新型ウイルスと共存していく」とまで言い切っている。

この考え方の基底にあるのは、「高齢者、持病持ち=生産性のない人間」は不要という思想ではないのか? これは「れいわ新選組」の舩後(ふなご)氏の言う、「身障者であれどんな人間にもその存在自体に価値がある」という思想とは対極の考え方だと思う。

このことは「コロナ戦争」で明暗を分ける重要な論点、人の生命と安全に対する観点問題として考えるべきことだと思う。

脱炭素化を覇権の道具に

赤木志郎 2021年1月20日

現在、菅政権は脱炭素化社会をデジタル化とともに重要な政策として掲げている。言うまでもなく、脱炭素化は生態系を守り地球温暖化を阻止するための人類共通の課題だ。しかし、菅首相が環境や生態系の破壊を憂い、なんとかしなければならないというような志や理想を語ったということを、誰も知らない。実務優先で理想とか理念の人ではない。そんな首相がどうして突然、脱炭素化を掲げ、ガソリン車の廃止、風力・太陽光発電などの再生エネルギーの拡大を言うのだろうか。いくら考えても、環境問題を心配してではなく、世界のすう勢から立ち後れた財界の要求から言っているとしか考えられない。

 それだけではない。バイデン米新大統領の政策をみると、グリーン革命を強く打ち出している。責任者にケリー元国務長官を配置し脱炭素化を世界的規模で押し進めるという。もともと民主党は環境問題を人類共通の問題という口実で世界のグローバル化の主な口実にしてきた。今回のグリーン革命においてでも、米国が「共通のルール」を設定し、それに反する国には制裁を加えるとしている。つまり、各国の協力で地球の生態系を保存していこうというのではなく、特定の国、すなわち米国に従わない国に圧力をかけるために環境問題を利用しようとしているのだ。これまで米国はパリ協定から脱退したばかりか、石炭発電所を利用している自国の利害から、脱炭素に反対してきた。今度は、一転して脱炭素で他国に圧力をかけようというのだから厚顔無恥も甚だしい。環境問題を覇権の道具にしようという米国の姿勢は、自国第一主義のすうせいに反し、各国の反撃にあうことになるだろう。

菅首相の脱炭素化構想はまさに米国の覇権策動に歩調を合わせたものでしかないといえよう。環境問題をまじめに考えるならば、脱炭素化の一つの方途として原発建設拡大を含めるなどのような矛盾していることをやらないはずだ。

 経済力と軍事力が弱化し、自由と民主主義理念も自国で機能せず、人権という口実も黒人、先住民族、ヒスパニックの人権を抑圧してきた米国に、覇権に利用できない。そこで最後のあがきとしてグリーン革命をもちだしたとしても覇権そのものが通じなくなっているのが、現時代だ。菅政権も米国の覇権策動に歩調を合わせるようなことはやめ、日本は日本の理想を追求していくべきではないだろうか。

-日本は英国の失敗をなぞっている-ウイズコロナではなくゼロコロナ対策を!

若林佐喜子 2021年1月20日

「変異株でコロナ感染爆発。日本は英国の失敗をなぞっている」

WHO事務局長上級顧問・渋谷健司氏が緊急提言。(文春オンライン1/7)

氏は、「今の日本の状況は、英国の手痛い失敗をなぞっているように思えてならない。英国も日本も、経済対策を重視し、感染対応が後手に回った。国民もコロナ慣れが広がり危機感が共有されずに、警戒感が低下してしまっている」と訴えています。

確かに日本政府は、昨年5月の緊急事態宣言解除後、経済活動の維持と感染防止の「ウイズコロナ」路線を掲げて突き進んできました。政府は、ひたすら感染症・防疫対策の基準の見直し緩和の方向に動き、現場には自助努力と責任をおしつけてきました。特に菅政権は、第2波がおさまらない中にあっても、出入国の基準を緩和し、GoToキャンペーンで旅行、外食を積極的に奨励してきました。その結果が、現在(1/17)、感染者が32万を越え、死者が4262人。感染拡大は止まらず、医療現場では医療の逼迫、崩壊が憂慮されるまでに至っています。

今回の新型コロナウイルスは無症状者であっても感染力が高く、更に、変異株(変異種)は、感染性が50%~70%と言われています。感染性が高いということは、急速に感染拡大するということであり、致死率が変わらなくても重症者や死亡者が増えるということです。

今、政府がやるべきことは、緊急事態宣言で「感染経路を遮断」し、「感染源」の検査・追跡・隔離を拡大し、早期に「感染源」を封じ込めることです。特に、「ウイズコロナ」路線の誤りを認め、「ゼロコロナ」(市中感染をゼロ付近に押え込む)に転換し、できるだけ早期に感染を抑え込むことです。そのためには、「感染源」対策としての検査・追跡・隔離の徹底化です。

今、政府に問われているのは、「国民の生命と健康」を守ることの責任と覚悟であり、その出口戦略を国民に示すことではないでしょうか。しかし、現実は、悲しいほどに、国民の声に押されてやっと、11都府県に緊急事態宣言を発令した菅首相の言葉からは、覚悟と責任は伝わってきません。

いざとなれば一致団結して国難にたちむかうのが日本人の国民性と言われています。「ウイズコロナではなく、ゼロコロナ対策を!」の国民の声で、政府を動かして行くことが緊急に、切実に求められていると思います。

国のあり方をめぐる闘争の年

小西隆裕 2021年1月5日

2020年は、グローバリズム、新自由主義の矛盾が大爆発を起こしたコロナ禍、「米中新冷戦」とその行き詰まり、史上最低の泥仕合に終わった米大統領選、等々、米覇権の崩壊が完全表面化した一年だったと言うことができる。

それを受けて、新年はどういう年になるか。

よく言われるのは、「総選挙の年」だ。だが問題は、何をめぐっての総選挙かと言うことではないか。

米バイデン次期政権は、いち早く「穏やかなアメリカ・ファースト」を打ち出した。国そのものを否定する窮極の覇権主義、グローバリズムへの回帰は、民主党政権になっても不可能だということだ。

そうした中、わが菅新政権はどうか。国家観、国家像がないと言われながら、「改革」を前面に打ち出し、国のかたちを変えるのに余念がないように見える。

覇権崩壊の時代に、国が前面に出てくるのは必然だ。支配層にとっても、国民にとっても、国以外に拠り所はない。

そこで問題は、国のあり方だ。特に「コロナ」の今、国民にとって、国の大切さは一層決定的だ。検査と隔離、治療、そして封鎖、経済の復旧と生活の保障、等々、そのすべてが国民のための国の存在なしには考えられない。

しかし、菅政権が追求する国のあり方、国のかたちは、それとは大分様相が異なっているように見える。デジタル資本主義、国家資本主義。コロナ禍で一気に広がった、オンライン、テレワーク、そしてマイナンバーカードの普及など、国を挙げての経済と社会のデジタル化。6G通信、電動自動車開発、そしてNTTとドコモの再合併など、大手独占を国が全面援助しての経済復興。

「改革」は経済だけではない。双務で日米安保を支えるための軍事改革、軍需産業の再開発、等々、徹底して大企業、支配層のための国のあり方だ。

それはまた、「米中新冷戦」とともにIT寡頭制に基づく覇権の建て直しを図る米覇権支配層を支えるものとなる。

コロナの撲滅とコロナ後の日本構築に向けた国民のための国のあり方か、ウイズコロナの下、新たな支配と覇権のための国のあり方か、2021年は、その両者をめぐる闘いの年として展開されていくのではないだろうか。

バンドン会議65周年目の結実、RCEP誕生に思う

魚本公博 2021年1月5日

昨年1月、私はこのサイトで「アジアの内なる日本として生きる、もう一つの原点を思い起こせ」なる文章を書いた。この年は「バンドン会議65周年」に当たるが、この会議で確認された「バンドン精神」こそがアジアの原点というべきものであり、アジアの内の日本として生きていくためには、この原点を再確認すべきではないかと思ったからである。

東西冷戦時代の1955年、「どのブロックにも属さない」としてアジア・アフリカ諸国がインドネシアのバンドンに会し、「主権尊重」を基本原則として、国家の平等、大国中心の集団安全保障体制反対、域外からの干渉拒否、内政不干渉、紛争の平和的解決、正義と国際義務尊重などの「平和10原則」を採択し「バンドン精神」を高らかにうたった。

この精神は脈々と受け継がれ、非同盟運動などが起きたことは記憶に新しい。そして、昨年11月のRCEP(地域的経済連携)の締結。GNP、人口ともに世界の3割を占める巨大経済圏の誕生。

それが「バンドン精神」基づくものだと言うのは、このRCEP誕生を主導したのがASEAN諸国だからである。ASEAN諸国は、「アジアの時代」と言われ始めた2000年代に入ると、この地域の更なる発展のために、ASEAN+3(日中韓)を提唱しその実現を目指した。そして、その参加条件としてTAC(東南アジア友好平和条約)の締結を要求したが、このTACこそバンドン精神を踏襲したものなのである。

日本は、この時,「TACって何?」「そんなもの結べば米国が黙っていない」(外務省)というものであった。「主権尊重」、とりわけ「域外からの干渉拒否」は米国覇権に抵触するものだからだ。結局、日本は締結したが、その後、その変質を図る。すなわち、ここにインド、オーストラリア、ニュージーランドを参加させた(07年)。

一方、米国もTPP(環太平洋経済圏構想)を打ち出し(13年)、ここにASEAN諸国も包括するという策に打ってでた。日本はこれに前のめり。しかし、トランプ政権のTPPからの脱退。

今、日本はRCEP締結を「米国をアジアに呼び戻すため」と位置づけている。そして11月11日に発表されたアーミテージ・ナイ報告は「RCEPは米国を含んでいない」ことを問題視しつつTPPへの復帰を示唆する。すなわち米国はTPPに復帰し日本を介在させてRCEP経済圏への浸透、変質、弱化を狙っていると言えようか。

「米国と中国、どちらに付くのか」と仕掛けてきた「米中新冷戦」や「インド太平洋構想」。だが時代は変わり米国覇権の凋落著しい中で、そのような脅しに応じる国はない。ASEAN諸国も「対抗の場ではなく対話の場に」としている。

それにもかかわらず、日本が米国をアジアに呼び戻すことに固執すれば、ASEAN諸国の日本不信を増大させるだけであり、それではアジアと共に生きていくことはできない。

RCEP締結、それは日本をして「アジアの内の日本」として生きていくのか、それとも米国という「外」と連携することで自らもアジアの「外」から「上」から対していくのかという二者択一を迫るものとなる。

バンドン会議65周年を経た今年、日本は「アジアの原点」とも言えるバンドン精神の「主権尊重」を基本原則とする域外干渉の拒否、内政不干渉、紛争の話し合い解決などの諸原則を誠実に守り率先垂範する道に進むことを決断すべきである。そうしてこそ日本は「アジアの内の日本」としてアジアと共に共存共栄する道を進むことができる。