アジアの内の日本 2021年2月号

バイデン「インド太平洋地域構想」を9条改憲日本が担うのか!

若林盛亮 2021年2月20日

菅首相は所信表明演説で「抑止力の強化」を打ち出し、今国会で「国民投票法改正」(=>9条改憲)をめざすと表明した。

これはいったい何を意味するのだろうか?

抑止力とは「敵が攻撃をためらう報復攻撃力を持つ」ということだ。報復攻撃力を持つということは憲法9条の専守防衛(攻撃力を持たない)路線の転換、すなわち9条改憲を意味する。

菅政権はなぜこの時期にこのような日本の形を変える路線転換を表明したのか? 

その答えは、バイデン米新政権によって「自由で開かれたインド太平洋地域構想」が打ち出されたからだ。

元来、「自由で開かれた・・・」は安倍前首相が提起したものであり、だから日本がアジアでこれを主導せよとの米国の企図を明確にしたものだと思う。

これはトランプの米中新冷戦・宣戦布告を踏襲する意思を明確にしたものであり、菅政権の「抑止力強化」「9条改憲」意思表明はこれを忠実に受けたものだ。

「自由で開かれた」の文言は中国の国有企業保護策などを許さない「自由で開かれた」法秩序の地域にするという露骨な中国排除の概念であり、アジア地域を中国包囲の「インド太平洋地域」にするという米中新冷戦の宣戦布告に等しいものだ。

さらにバイデン政権は これにトランプ時代のクアッド(Quad:米日豪印4カ国)構想を加え、これの中国包囲の軍事同盟化、「アジア版NATO」形成をめざす姿勢を明確化した。さらには英仏独をこれに巻き込み、「中国の海洋進出の脅威」を云々しながらすでに英航空母艦の日本近海派遣を強行させ、フランス、ドイツにもこれに倣う決定を下させている。

これがバイデン流の「国際協調」、米中新冷戦時代の中国包囲の反中国際同盟強化だ。

それは軍事的にも覇権力を喪失した米軍の侵略武力補完を「国際協調」の名の下で実現しようということだ。もはや弱体化した米軍事力ではアジア地域への覇権軍事力、「抑止力」が限界点に達している現実の反映でもある。

一例を挙げれば中国の極超音速滑空体ミサイルDF-17、ロシアの空対地極超音速ミサイル「キンジャール」や朝鮮の変速軌道ミサイルKN-23に対し現在の米軍には防ぐ手だてがなくなっている。これを迎撃するには約千個の軍事偵察衛星を打ち上げ変則的に移動するミサイルを追尾監視するしかないとされるが、いまの米一国でまかないきれるものではなくなった。だから米日豪印「アジア版NATO」に加え英仏独を巻き込む「国際協調」で対抗するしか方法がないという米国の窮余の一策に過ぎない。

特に「アジア版NATO」形成は米国が米中新冷戦で覇権的優位を復活できるどうかの死活的問題となっている。

ここで問題になるのが日本の憲法9条だ。

「アジア版NATO」はすべての同盟国が米抑止力の補助となる抑止力、報復攻撃能力で貢献することを求める。となると「報復攻撃力保有を禁じた」専守防衛の9条日本がネックとならざるをえない。

すでに安倍政権時の改訂「防衛大綱」は、小型空母、射程900kmミサイル(日本海から平壌に到達)保有など実質的に「報復攻撃力」保有を認めた。後はこれに法的担保を与えるのみだ。

菅政権の「抑止力強化」表明、「国民投票法改正=9条改憲」は、バイデンの「インド太平洋地域構想」、その具現である「アジア版NATO」形成の要請以外の何ものでもない。

トランプが「インド太平洋地域戦略」を打ち出したとき、アジア(ASEAN諸国)は「対抗ではなく対話と協力の地域」にすると対抗策を打ち出した。

これが「アジアの内の声」だ。

脱亜入欧以降、「アジアの外」に出てアジアに覇を唱え、戦後はその覇権主義を対米従属に衣を替えて行ってきたわが国だが、これをいまもなお続けるのか、見直すのか? いま日本の出所進退が問われている。

それは「9条改憲日本」に転換してまで窮地にある米覇権と破滅の運命を共にする「アジアの外の日本」を続けるのか、アジア(中国まで含め)と平和と繁栄を共にする「アジアの内の日本」に転換するのか、そういう正念場に来ているということではないだろうか。

ワクチンだけに頼るのか

赤木志郎 2021年2月20日

菅政権はワクチン接種にだけ頼ろうとしてきた。もちろん、体内に抗体を作って感染しても侵入したウイルスを撲滅できるようにワクチンを開発、製造していくことは、コロナ対策においてきわめて重要なことだ。しかし、ワクチン開発に少なくとも1、2年という期間がかかるというのは常識だ。それゆえ、感染者が出れば、まず封鎖し、PCR検査を実施し、無症状感染者を捉え、隔離、治療することによってできるだけ封じ込めるという感染症対策の基本をよくやることが重要だと指摘されてきた。

しかし、安倍政権、菅政権ともPCR検査を抑制し、クラスター(集団感染)つぶしと重症者対策を基本にする方針をとったために、無症状感染者を捉えられず、さらにGOTOトラベルなどを実施したために、今日の感染拡大をもたらした。感染症対策の基本が封鎖および検査、隔離と治療だということは、中国、朝鮮、台湾などの東アジア諸国の経験からも明らかだ。

そして、今、そのワクチン接種が医療従事者4万人を対象に開始された。コロナウイルス用のワクチンは、世界で感染者がすでに1億を超すほど拡大していく中、各国で開発が急がれたものだ。通常では、効果と副反応を検査し確認には1年以上かかるものだという。それを半分に短縮し、接種しながら反応を見るという状況になっている。だから、ワクチン接種を受けたくないという人も多い。ワクチン効果も数ヶ月間だけという。さらに、コロナウイルスがたえず変異し新しいウイルスが生まれるという難問題がある。だから、国民皆がワクチン接種すればそれで解決されるのではない。

それゆえ、ワクチンだけに頼らず、検査と隔離、治療を強力におしすすめることを並行して行っていくべきだと思う。

PCR検査を大量に処理できる医療器機を日本企業が作りながら、それは英国企業の契約のもとにあり日本では使われていない。日本の力が欧米の下請けに利用され、日本ではPCR検査が制約されている。また、米国企業のアビガンというウイルス治療薬をまだ試されていないのに無料で提供され、日本が治療に使用するという例があった。それは日本人を人体実験に提供するというものではないか。こんな馬鹿な話があるのだろうか。欧米に依存せず、欧米の下請けをせず、日本の優れた力を動員し日本国民のために使っていき、経済優先ではなくコロナ対策の基本を徹底していくという国民第一主義の考え方でなければならないと思う。それが日本という国の使命と責任だ。今、問われているのは、国民第一主義の国とすることだと思う。

今こそ、「ウイズコロナ」から「ゼロコロナ」への転換を!

若林佐喜子 2021年2月20日

先月20日、国会の代表質問で立憲民主党が、菅政権の掲げるコロナ対策と経済の両立「ウイズコロナ」ではなく、感染封じ込めと支援を徹底した後に経済活動を再開する「ゼロコロナ」戦略を提唱しました。また、感染症対策の原則と暮らしを守るための2020年度第3次補正予算案の組み替え動議の原案(GoToトラベル延長の経費などを感染防止や医療支援にまわす)を示し、他の野党との共同提出を目指すとのことでした。

だが、その後、国会質問のやり方だけが焦点化され、提唱内容が論議された気配はありません。

一方、菅政権はワクチン接種に全力を注ぐ姿をアピールしています。

しかし、日本はワクチンへの信頼度が世界で最も低い国の一つであり、社会的免疫の獲得に必要とされる摂取率70%の達成は容易ではありません。

だからこそ、基本に立ち返ることが必要だと思います。日本政府に最も欠けているのは「感染源」対策としての検査・追跡・隔離の徹底、政府への信頼の回復です。

政府と御用専門家は、昨年の5月、緊急事態宣言の解除後、経済活動の維持と感染防止の「ウイズコロナ」路線を掲げて突き進んできました。政府と厚生労働省はひたすら、感染症と防疫対策の基準の見直し、緩和の方向でやってきました。

特に、菅政権の強引なGoToキャンペーンの実施は全国に感染拡大、第3波をもたらし、人々に政府の「ウイズコロナ」路線の誤りを可視化させたようです。

政府は、「新型コロナウイルスは軽症者と無症状者が多く、持病持ちと高齢者にちょっと怖い感染病」と言ってきましたが、それは間違い、嘘であったことに人々は気づいたのです。

陽性反応が出て宿泊療養が必要になっても自宅待機、その間に家族が次々に感染してしまった一家。感染後、心身ともに後遺症に悩む人々。コロナが身近なところまで来たのをひしひしと感じている人々。

今こそ、「ウイズコロナ」から「ゼロコロナ」に転換しないと、結局、経済も早期回復せず、悪循環になるばかり。これが、多くの人々の実感、認識なのではないでしょうか。

「トランプ政権の第二期目」

小西隆裕 2021年2月5日

前代未聞の珍事、醜聞に彩られながら、バイデン政権がスタートした。

この日を待ちわびていたかのように、就任直後の大統領執務室で、バイデン氏は17の大統領令に一気に署名した。

パリ協定への復帰、WHOからの脱退中止、イスラム諸国からの入国規制の破棄、等々、

いずれも、トランプの「アメリカ・ファースト」から脱却し、国際協調路線に回帰するという自らの姿勢を鮮明にするものだった。

「脱トランプ」を目指すバイデン大統領が強調することがもう一つある。

「結束(UNITY)」だ。

比較的短めだった大統領就任演説に10回も出てきたこの言葉に、トランプ氏の「分断」に対するバイデン氏の思いが込められている。

「脱トランプ」の「国際協調」と「結束」。

これを持って、バイデン政権の政治を「オバマ政権の第三期目」と呼ぶ人もいる。

言い得て妙かもしれない。だが、はたしてそうなるだろうか。

政治はどこまでも結果だ。結果がどうなるかでその政治に対する評価が決まる。

まず第一に「アメリカファースト」だ。

今の米国に「米国の国益第一」からの脱却などとてもできないと思う。

何よりも、今、米国内で「アメリカファースト」を否定するということは、国を真っ二つに分断することを意味している。実際、大敗が予想された大統領選で7200万票を獲得したトランプ支持勢力の力は根強く、それは、「愛国党」結成への動きなどとしても現れている。

一方、バイデン政権は、中国の台頭を最大の課題として、あくまで「米中新冷戦」を強行する構えだ。これは、バイデン政権の「国際協調」がどこまでも同盟国間の「協調」であり、「米国の国益第一(アメリカファースト)」のための「協調」であることを示している。

次に「結束」はどうか。

今日、米国の分断の根源が所得格差、人種格差の拡大にあるのは誰もが認める事実だ。トランプ政治はそれを助長したに過ぎない。

新自由主義を信奉するバイデンの政治がその格差を克服し、「結束」を実現するものになるいかなる根拠もない。

以上、バイデン政権のこれからの4年間を見る必要もない。結果は明らかだ。「脱トランプ」の悲願も空しく、バイデン政治は、「トランプ政権の第二期目」になる以外にない。

平蔵許すまじ! 国民を「反乱」にまで追いつめると言うのか

魚本公博 2021年2月5日

「#竹中平蔵つまみだせ」がTwitterでトレンド入り。ネット上で竹中平蔵氏への批判と非難の声が高まっている。

竹中氏は、新自由主義改革を推進し非正規労働の拡大を推進してきた。そして人材派遣会社「パソナ」の会長として大儲けした。竹中非難の声は、新自由主義改革でワーキングプアを強いられた多くの人々の怨嗟の声、怒りの声なのだと思う。

その彼が菅政権のブレーンとなって、さらなる新自由主義改革を進めようとしている。彼の著書「ポストコロナの『日本改造計画』」にその方向が示されている。それは、コロナ禍を背景にデジタル化を利用して新自由主義改革を究極にまで押し進めるというもの。

それが如何にとんでもないものかについては、ネット上で飛び交う批判、非難の声をご覧になれば分かる。その上で私が注目するのは、竹中氏がこの改革を「これまでとは桁違いの格差が生まれる」と確言していることである。そして、その対処策としてのベーシックインカムを提唱する。それは、一人当たり毎月7万円を生活支援金として支給する代わりにこれまでの年金や社会保障を撤廃するというもの。

こうなれば、年金を含む社会保障は、自己責任。各人が民間の保険会社と契約することになる。民間の保険会社は倒産もありうるから保険は外資系やそれと連携する大手に集中する。要は「民営化」という名の日本売り。それは保険に止まらず、教育、医療、あらゆる公的分野に及ぶ(水道が有名)。竹中非難の声の中に「売国」があるのも、そのためだ。

そして貧困層。彼らは、低額保険に加入するか未加入になるしかない。それは竹中氏が模範とする米国社会の現実を招来する。麻薬や酒、賭博への逃避。犯罪の多発。それを餌にはびこるブラック・ビジネス・・・。

竹中氏は、ベーシックインカムで支給する額、7万円について、20万円だと働かなくなるから働くようになるギリギリの線だと説明する。まるで江戸時代の「生かさず殺さず」政策。彼が国家の指導性や強権性を主張するのも、その「改革」が人々を「生きるか死ぬか」の極限にまで追いつめ、「反乱」も想定される程のものだと自認しているからだ。新自由主義信奉者である竹中氏にとっては、それは「良い」ことであり、こうしてこそ新自由主義改革も進むと考えているのだ。

竹中氏をブレーンにする「日本改造計画」。それは、日本国民を「生きるか死ぬか」の極限にまで、「反乱」にまで追いつめるもの。そうであれば、我々国民には、それだけの覚悟をもった対応が迫られていると思う。

最近の国会答弁でコロナ禍の中で生活苦に陥った人々への救援策を問われた菅首相は、自助・共助・公助を強調しながら「最終的には生活保護がある」と答え猛反発を受けた。コロナ禍で生活できなくなっている人々への国の支援を問われているのに、自分で努力し(自助)、互いに助け合って(共助)、最後に生活保護とは。全く新自由主義的発想であり、そこには国民の命と暮らしを守るという観点がまったくない。

その怒り。ネット上では「#もういらないだろ自民党」というハッシュタグが急拡散していると言う。そこに氾国民的な「反乱」の声を聞くのは私だけだろうか。「国民の命と暮らしを守る」。この政治の原点に立ち戻った新たな政権の樹立。その気運の盛り上がりを大いに期待する。