よど号LIFE 2020年9月号

コロナ・ワクチンとプーチン

小西隆裕 2020年9月20日

ロシアの新型コロナ・ワクチン開発が進んでいるという。

その影にはやはり国の役割が大きく働いているように見える。

そこで鮮明なのがプーチンによる指導だ。

コロナ・ワクチン開発を国家的なプロジェクトとして強力に推し進めるようにしたのも、

そのために必要な人的、物的な国家的保障をしているのも、

プーチンの存在なしにあり得ないだろう。

そうした中、先日のニュースで、ロシアがワクチンの人体実験を開発工程を大幅に繰り上げて開始する、その実験台にはプーチンの娘も含まれているとのことだった。

これをどう見るかだが、いわゆる「西側」の眼は冷ややかだ。

プーチンが功を焦り、ロシアが先陣を切ろうとしているということだ。

だが、自分の功のために娘を危険な目に遭わせる親がいるだろうか。

今、ロシアは死者こそ少ないが、世界でも5番目のコロナ感染大国だ。

それで、プーチン自らが防疫戦闘の陣頭に立つようになった。

以来、米国に次ぐ感染爆発状況にあったロシアが大分落ち着いてきたように見える。

そうした中でのワクチンだ。

やはりプーチンは、ロシアとロシア国民のため、引いては世界のために、できるだけ早くワクチンを完成させようとしているのではないか。

口では天下国家を論じながら、実際には政治家が自分の利益第一に行うもの、それが政治というものだ。そうした古い政治の「常識」が常識でなくなる日が早く来てほしいものだと思う。

五木寛之の「回想のすすめ」、私も同感

若林盛亮 2020年9月20日

メールで送られてくる新聞の広告欄に「おや」? と目が行った。それは新刊書の広告にあった五木寛之「回想のすすめ」。内容は読んでみないとわからないが、「百年人生、指南の書」とあるから、老齢期を迎え自分の人生を回想することは意義のあることだということのようだ。

私は還暦を過ぎた頃、必要に迫られ「拉致疑惑と帰国」(河出書房新社)に手記を記す機会を得た。そして古希を越えて再び昨年は「追想にあらず」(講談社エディトリアル)に、よど号ハイジャック50年の今年は「1970年?端境期の時代」(鹿砦社)に手記風の文章を書くことになったが、書く度ごとに自分の歴史が整理されていく過程となり、「自分を知る」契機になった。

これまで誰に話すこともなかった自分の様々な「現場の記憶」、話しても理解されないだろうとそっと自分だけの引き出しにしまっておいた未整理の不連続な出来事の数々。しかしそれは決して不連続の出来事ではなく、誰かが言った「人間にはどうしようもない必然性から選んだ生き方というものがある」と一つの線でつながるものだった。

「女の子の授業はあっちだ」と長髪を咎めた体育教師に反抗心を抑えられず「ならあっちへ行ってやる」と進学校からのドロップアウトを選択、以降は「異端児でけっこう」と幾多の曲折を経、その果てに「10・8の衝撃」で学生運動に出会うことによって「革命家になる」とよど号ハイジャックで朝鮮に飛び発って今日に至る。

混沌そのものの人生遍歴だから若い頃はなぜ自分がこうなのか整理がつかず自分は変わり者なのだろうくらいにしか思えなかった。政治活動家集団の中にあって過去のドラッグ体験など「恥の記憶」として話せるものではなかった。私は過去を封印した。

年齢を経たからこそ自分の歴史を穏やかに客観視できるものなのかもしれない。若い頃にはその感情や行動の意味がわからなかったこと、不連続な記憶のまま整理されなかったものが一つの線でつながることがある。あっちに転がりこっちに転びの私の人生遍歴も「戦後日本はおかしい」という私なりの動機、「どうしようもない必然性」からくる試行錯誤の過程であり、それを経てきたからこそ今があるのだろうとようやく人に話せるようになった。

過去の偶然の産物と引き出しにしまってきた幾多の出会いと別れの記憶、これらも各時期ごとの私には必然の出会いであったこと、私の背中を押してくれた恩人との大切な出会いだったことがわかるようになる。だからどんな記憶も大切なものだとわかる。

そして封印してきた人たちの声が聞こえる?You’ll never walk alone! けっしてお前は独りじゃない、だから歩け、歩き続けよと勇気と励ましをくれる幾多の恩人がいて今日の私がある。この恩に報いるためにも歩みを止めてはならない、そう思える。

だから老齢期に入る同世代には五木寛之の言う「回想のすすめ」を私もおすすめする。

手前味噌かもしれないけれど、そんなことを考えさせられた。

秋のひととき

赤木志郎 2020年9月20日

朝夕、涼しくなり、戸外では虫の鳴き声が響き、桔梗やむくげ、コスモスが咲き、すっかり秋を感じさせる。

 今年の秋はいつもの秋と違うように感じる。それはコロナ禍にたいするマスク、消毒などの対応が日常化し慣れたこと、猛暑と台風、雨から解放されたことなどによると思う。ほんとうに慌しい8ヶ月だった。

 今、ようやく少し落ち着いた気持ちで、青い空を見上げることができる。

 秋は読書と思索の季節だ。

 まだ世界ではコロナウイルスの感染が広がっているが、コロナ後の世界、日本のあり方をじっくり考える時だと思っている。

サルナシが美味い

魚本公博 2020年9月20日

食欲の秋、収穫の秋。今サルナシが食べ頃。

サルナシは私の故郷では見かけたことがなく朝鮮に来て初めて食べました。キウイと同種で形も味も似ています。キウイよりも小さいですが、より野性味があって何ともいえない美味さ。美味い、美味いと言う私に朝鮮の人が、そんなものどこにでもある。周囲の林にもある筈だと言うので探したのですが無い。

妙香山や九月山、元山に行く途中の山林などにも生えており、そこに行った折りには挿し枝で生えないものかと枝を持って帰って植えたりしたのですが根付かない。そうした中、10数年前にウンリュル郡を見学したとき、宿所の周辺に大量に生えているのを発見。そこで数本の苗を採取して、周囲の林に植え長年の念願をようやく果たしたわけです。

それが大きくなり、鳥がついばんで糞と共に種子が散布され、今では六カ所ほどに大きな群落ができています。特別に手入れもしないので、つる草や木に巻かれ実らない年もあるのですが、今年は一カ所の群落にかなりの実がついていました。

早速、収穫、皆にも配りました。小さくて受け取り手のないものは焼酎に漬けてサルナシ酒に。これから柿、栗も収穫期。夏やせするタイプの私にとっては体力回復のための「食欲の秋」のこの頃です。

「うらやむものはない」とは

森順子 2020年9月20日

2週間の間に3つの台風が通りすぎ、朝が冷えるくらいの気候になり秋を感じる中旬です。しかし、涼しい秋風も朝鮮の現実は熱い風となって、今、全国の人々の心は洪水と台風被害復旧支援に注がれています。

とくに、災害復旧建設の先頭に立つようピョンヤン市の党員に呼びかけ、このことによって市内では、首都に住む自分たちが被災地域の人々が負った禍を福に、という気持ちで小さな力でも小さな事でも被災民のためにという雰囲気です。

被災地の人々が、今よりもっとよい住宅と環境で暮らせるようにと国が心配している。それは自分たちにかかっている。呼びかけに応えて先頭で・・・と、リュックを背負い長靴姿の党員たちの声。このような中で、1万2千人の党員が現地に出発したわけです。多くの人が街中で手を振り、アパートからも手を振る人、その表情は私の分まで頑張って、頼んだわよー、と言っているみたいに思えました。

市内の人々のそんな声や姿は、被災した住民の苦痛に寄り添おうとする情で溢れています。だから見ていて胸が熱くなるのは当然ですね。コロナのため国境は封鎖、そして今回の甚大な被害です。大変な状況の中で全国の心が通った助け合い、譲り合い、支え合って災難を乗り越えようとするこの国の美風を改めて感じています。

台風

小西隆裕 2020年9月5日

先日の台風はきつかった。

朝鮮に来て50年、こんなにきつい台風は、記憶にない。

事務室の窓の外を見ていると、木の葉や小枝が引きちぎれて飛んでいくのがよく見える。

もちろん、いつもは飛び交っている鳥たちの姿もただの一羽も見えない。

ふと、子どもの頃、宮崎は延岡、五ヶ瀬川をさかのぼった谷間に住んでいた時のことを思い出した。

あそこの台風は凄まじかった。

一家総出で、雨戸を支えていたものだ。

そこで思ったのは、雨戸というものの効用だ。

窓ガラスが割れるのを防いでくれる。

木の切れ端が飛んできて窓が割れるのを覚悟しながら、もう一つ思ったこと、

それは、朝鮮が台風の通り道になってきている原因だ。

地球温暖化でシベリア高気圧が弱くなったからではないか。

それで台風が朝鮮に来る前、横にそれなくなったのでは。

やはり人間、自分の利害が切実になってきて初めて、物事への関心、考えも深まるものだ。

やれやれ。

村上春樹の「父の記憶」?斬首された中国人捕虜への敬意

若林盛亮 2020年9月5日

村上春樹の新刊「猫を棄てる」の紹介文を眼にした。「猫を棄てる」は彼が「父の記憶」を語ったものだが、そこには私がとても共感した「父の記憶」が記されていた。

父の「戦争の記憶」を語ったくだりだ。彼の父は中国大陸の戦場で生涯、忘れられない体験、初年兵が「肝試し」として中国人捕虜斬首をやらされる場面を目撃した時の衝撃を息子に語った。そんな「父の記憶」を村上春樹は次のように語っている。

「中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。実に見上げた態度だった、と父は言った。彼は斬殺されたその中国兵に対する敬意を──おそらく死ぬときまで──深く抱き続けていたようだった」

私も中国人捕虜刺殺の話しを聞かされたが、それは村上春樹の父とはまったく逆の「戦争の記憶」だった。

小学5年の時の担任の教師が中国人捕虜刺殺訓練をやった体験談、「刺した後は銃剣をくるっと回して抜くんだ」という刺殺要領を得々と生徒に語った。私は子供心にも強い違和感を覚えた。その教師が「戦後民主教育のリーダー」と目され父兄からも尊敬されていた教師だったからなおさらだった。後に母から聞いたところによるとその教師は市の教育委員になったそうだ。この教師は戦後日本そのものを象徴しているように思う。

村上春樹の父のように「斬殺された中国兵への敬意」、あるいは中国人捕虜斬殺に対する良心の呵責感は戦後日本で封印されてきたものだ。米英に対する敗戦を認めただけで、アジアへの敗戦、植民地支配の反省、捕虜斬殺、刺殺に象徴される独立闘争への過酷な弾圧への謝罪は封印されたまま、戦後日本は出発した。その帝国主義覇権体質は日米安保体制、対米従属と形を変えて。

いま村上春樹が「父の記憶」を語り出したのは、そんな戦後日本への警鐘なのかもしれない。いまや「米国について行けば何とかなる」時代は終わった。村上春樹の父が語ったような「戦争の記憶」、それが75年に渡る長い封印から解かれるべき時に来たのだ。そう思う。

台風8号

赤木志郎 2020年9月5日

台風8号が朝鮮半島を襲った。台風がいつものように沖縄から本土の方向に曲がるのではなく、そのまま北上したからだ。

これまで朝鮮半島に台風が来たといってもすでに弱くなっているから、ちょっと風が強くなる程度だった。今度は違う。なによりも風がすごい。木を倒し、アパートの屋根のトタン板が飛ばされ、農作物にも被害を与えた。

日本人村での一番の被害は衛星アンテナの方向が大きく変わったことだ。直径5Mなので調節が大変。直径3MのアンテナにもBS装置をつけてみたがなかなか良くできない。アンテナの方向を手で調節するのは数十分で限界。おまけに夏の暑さ。シャツもズボンも脱ぎ、30分ごと休んで冷房に当たった。

そのような中、国内からネットニュースが届いた。安倍辞任関係の報道を知りたいのだろうと思って送ってくれたのだ。本当に有り難い。

アンテナ調節は今日も続く。アンテナ線とLNBを交換してもなかなか方向合わせが大変だ。行き詰まったときもあきらめないで努力する時、なんとか道が拓けると言ったのでは京セラの稲森会長だ。そういうことを経験したことは何回かあるが、希望をもって努力していくことだと思う。

5Mアンテナは方向が定まっているので、もう一度、5Mアンテナを試みた。するとやっと受信できるかどうかのぎりぎりのところまでできた。後は、微調整で済むはずだ。

目処がつきいったん道具を片づけた後、雨になった。台風9号が近づいている。作業はしばらく休みだ

台風9号がすぎたら、台風10号が迫ってきている。BS放送はメール、ラジオとともに、重要な情報源だから、なんとか復旧させなければならない。

読書の秋

魚本公博 2020年9月5日

もう9月。まだまだ残暑厳しいですが、朝晩はすっかり涼しくなりました。うるさかった蝉の声もだんだんと弱々しくなって、初秋の気配漂うこの頃です。

秋と言えば、読書の秋。夜、床についてからのベッドの上での読書が楽しい季節。とは言っても、新刊書など入手困難ですので、すでに読んだ本の再読です。でも入念に読み返すので新たな発見もあって中々よいものです。

今、読んでいるのは「家康、江戸を建てる」(15年発行)門井慶喜著)。戦国末期、北条氏滅亡後、関東に国替えさせられた家康が如何にして江戸を作ったかを描いた小説。

当時の江戸は、江戸湾に面した芦原茂る低湿地帯。ここに利根川、荒川、渡瀬川などが流れ込み、大雨のたびに氾濫が繰り返されるような地帯。

そこで「第一話 流れを変える」の物語。いわゆる「利根川東遷」。江戸湾に流れ込んでいた利根川を今のように銚子を河口にした流れに替える事業。受け持ったのは伊奈忠次。苦心惨憺、3代60有余の年月をかけてやりとげたわけですが、再読の今回は、一つ一つ地図で確かめて、どの地点でどのように東に流したのか確認しながらの読書になりました。

「第三話 飲み水を引く」(井の頭からの神田用水)の話しと共に、江戸は何もないところから作りあげた新都市なのだということがよく分かりました。それが今の大東京の礎。私たちの先人の努力を改めて思い返す読書でした。

朝鮮で初めての体験

若林佐喜子 2020年9月5日

先月末の台風8号は、朝鮮の人もはじめて体験するという強い台風でした。

これまで朝鮮は地震と台風の上陸はなしと言われていましたが、昨年に一度、そして、今年。8月25日に国家的な非常対策、指示が出され、26日、27日は外出の禁止や警戒注意報、特に27日の午前中はピョンヤン市の学校は休校に。多くの木々が倒れ、農作物に少なからぬ被害があったようですが、倒れた稲をおこす作業や消毒、栄養剤の散布など、迅速に復旧対策が進められています。

さて、わが日本人村は? 26日に管理人が、「窓をしっかり閉じて、風が吹いたら外に出ないように。飛ばされます。窓ガラスが割れたりすることもあり得るので、窓際に近づかないように」と。yobo yodo相手なので、一人ひとりにしっかり伝達。その日は、一晩中、テレビで台風情報が流れる。こんなことは初めての出来事で、見ているだけでさらに緊張する。27日、朝から暴風に。日本人村は高台にあるので、水の浸水は心配ない。しかし、周りが山や木々に覆われているので、暴風の様子が手に取るように伝わってくる。最上階の家は強風をもろに受け、窓が吹き飛ばされるのではないかと必死で押さえていたそうだ。屋上のトタンが数枚飛ばされ、事務所前の坂の上の街灯のかさが飛び、子供たちが植えた梨の木が根こそぎ倒れる。小枝をなんとか生かせそうなのでちょっと一安心。

渡朝50年のyobo yodoも初めての強風台風の体験。

近年の豪雨被害、台風被害は地球温暖化による異常気候が原因で、さらにその影響は大きくなるとも言われています。国を挙げての積極的な危機対応、防止対策と迅速な復旧対策の重要性を実感させられた、8号台風体験でした。