よど号LIFE 2020年12月号

ハイジャック50年の集いに感謝して

小西隆裕 2020年12月20日

この間、コロナ禍にありながらも、何とか今年中にということで、ハイジャック50年の集いを東京と大阪で11月と12月、連続的に開いていただいた。

半ばあきらめていただけに本当に有り難いことだった。

東京では80名、大阪では20名と、これまた予想を上回る大勢の方々に集まっていただいた。

私たち自身、この両方の集いで発言の機会を与えていただいたのだが、電話越しに聞こえてくる暖かい拍手に、国内からの励まし、国内との心のつながりを実感させていただいた。

この二つの集いを通して、もう一つ。私たちに20数年来かけられ続けてきた拉致疑惑との関連で、一つの追及の声も聞かれなかったことだ。「疑惑」自体、朝鮮敵視の古い時代の遺物だという私たちの長年に渡る訴えに耳を傾けていただけるようになったのではないかと思われ、有り難いことだった。

私たちは、50年前日本の地で闘い、その後、ここ朝鮮の地にあっても闘い続けてきた者として、それにお応えして、これからも、国民のための日本、アジアの内の日本の実現に向け闘っていきたい。どうか末永くよろしくお願い申し上げます。

子役のちよちゃん万歳!

若林盛亮 2020年12月20日

新しい朝ドラにはまっている。浪花千栄子をモデルにした「ちよちゃん」、その子供時代の主人公、その子役の子がとてもいい。

「ウチは捨てられたんとちがう。ウチが家を捨てたんや!」

家から追い出すためにちよちゃんを奉公に出す父と「新しい母」、見送る父に投げつけた決別の捨てゼリフがなんともカッコいい。酒とバクチに明け暮れる父親が連れてきた「新しい母」はちよちゃんに家事を押しつけ三味線ばかり弾いているような女、挙げ句の果てにじゃまな千代ちゃんを奉公に出す父に向かって投げつけた一言、「ウチが捨てたんや!」の言葉、その一言でちよちゃんという人間を見る人にわからせてくれる。これから始まるちよちゃんの新しい人生ドラマを想像し胸をときめかせる。

千代ちゃんを演じる子役の子、この子の演技の迫力には圧倒される。

誰にも頼れない独立独歩のちよちゃんの頭はくるくるよく回るし口も達者、行動力もハンパじゃない。その魅力で周りの大人たちを「ちよちゃんサポーター」に変えていく。

ドラマは子供のちよちゃんに引っ張られてぐんぐん進行する。そんなドラマを子役の小学生俳優が堂々と演じている。ドラマ視聴者の私まで「ちよちゃんサポーター」に変えていく迫真の演技はとても子供とは思えない。

日本にいた頃、劇団所属の「俳優の卵」の友人がいた。俳優というのは舞台でいろんな人間を演じられるのが面白い、自分の知らない人生を追体験できるのが舞台なんだと。舞台俳優というのは自分の役の人物像、人生像を自分が考え想像をたくましくしてその人そのものになる、一個の人間像を創造するのだというようなことを言っていた。だから同じ人物でも演じる俳優によって微妙に違う人間像になるのだとか。

だから皆を夢中にさせる子供時代のちよちゃんは、この子役の子が創造した傑作! ということはこの子役の子はもうすでに偉大な俳優!

今週から娘時代に入っていく、この子役の子がもう見れなくなるのはつらい。ちよちゃん、よく頑張ったね、感動をありがとう!

忘れ物

赤木志郎 2020年12月20日

食卓の上に全員分が均等に盛られたリンゴを自分が食べたのかどうか分からなくなり、人に聞くことは日常茶飯のことだ。あまり害がないと笑ってすごしている。

どちらかと言うと私は忘れ物が少ない方だった。人との約束は大抵忘れないし、何かどこに置いたのか分からなくなった時、慎重に記憶を辿り関連場所を徹底的に探していき、大抵は見つける。

ところが最近、これは大事なものだからよく保管しようとしまった物が見つからない時がある。例えば、身分証明書がそうだった。他の人が紛失したことがあったので、私も気をつけようとどこかに保管したのだった。いざ必要になったとき保管場所を忘れ、ちょっと慌てた。結局、別のところに保管してあった。こういうことが続いた。「これはしっかり保管しなければならない」とどこかに仕舞った衛星アンテナの分配器はまだ見つからない。

大切なものだからよく保管しようとしてかえって見つからないのも、健忘症の一種なのだろうか。「しっかり保管しよう」としてどこかに仕舞い、安心して忘れるのかもしれない。特別に保管せずに分類にして保管するのが一番、良いかもしれない。

年末を迎えつつあるこの頃、さまざまなもの、器資材などをもう一度分類しなおして整理しようかと思案している。同年代の方々、同じ苦労をしていると思う。歳を重ねているだけに、もっと注意したいと思っている。

現代の怪談

魚本公博 2020年12月20日

BSで「現代の怪談」というのをやっていました。その中の「業界怪談」での建設業界の話し。色々と怖い話しがありましたが、考えさせられたのは、「遺産処理」にまつわる話し。

 番組では、父親と娘さんの二人だけで住んでいた家(邸宅)で父親が病死。その後、娘さんも交通事故で亡くなった。そこで親戚の依頼で遺産処理を請け負った業者。仕事を終え真夜中の道を運転して帰る車のバックミラーに女性の顔が。そして、「忘れ物があるわ、引き返して」の声。後ろを見ても誰もいない。引き返した家に残っていたのは父親の手帳・・・という怖い話し。

しかし、そこで感じるのは怖さよりも悲しさ。その業者も「悲しいことだな」という思いがあり、バックミラーに女性の顔が写ったときも「ああ娘さんだな」と直感し、引き返してあげなければと思ったそうです。

考えてみれば怪談というのは四谷怪談でも、播州皿屋敷でも悲しさがあります。それを我がことのように感じるからこそ怪談も成立するわけで、「建設業界」での話しの多くも、そうした悲しさを背景にした話しでした。

それにしても遺産処理業などというものがあるとは。自殺者や孤独死が増え、その多くが身寄りもいないという状況の中で、こうした業種が成り立っている。業者は「皆さん時間がないんですね」と言っていましたが、もっと根本的には、人間関係の疎遠、希薄さがあると思います。

50年前にも「東京砂漠」などと言われていましたが、それが今では「怪談」を生むような状況にまでなってしまっている。怖くも悲しい話しです。

50年前に見た光景

森順子 2020年12月20日

昭和47年というから、ほぼ50年前。神奈川県の相模原で当時ベトナム戦争に使用される武器を輸送する列車を阻止する住民や活動家の100日間の闘争を記録した映画が上映されるようです。ラジオがそう言っているときに、列車に乗った何台もの網にかかった大砲を高校生の時に目撃した記憶が頭に浮かんだ。たしか厚木方面に大勢でハイキングに行った帰りのどこかの駅での異様な光景。青い空に向かった砲が、なんとも不釣り合いで冷たさを感じたことまで思い出した。「これ、ベトナム行きだよ」と、誰かが言ったら、みな沈黙していたっけ。また「あの人の生きたように」というベトナム戦線で闘った人の本を読んだ記憶までもよみがえった。その後、少しずつ日本という国の見方が私の中で変わっていったように感じます。

相模原の住民や活動家の闘争記録が撮られていたことにも驚きですが、50年経って今、上映されること自体、これからの時代や日本を考えていく上で、とても意義あることなのではないかと思いました。そういう人々の闘争があって今があることを忘れずに来年も進んで行きたいと思います。よろしくお願いします。

琵琶湖の苦い思い出

若林盛亮 2020年12月5日

先週の大河ドラマ「麒麟が来る」は信長の「叡山焼き討ち」、番組最後のゆかりの地紹介に、「浜大津から叡山を望む」風景が出た。

比叡山は前にも書いた赤軍派参加で上京直前、京都市街と琵琶湖を同時に眺望できるところ、山の中腹に座って故郷に最後の別れを告げた懐かしい思い出の地。

一方、浜大津辺りの琵琶湖一帯は私が高校時代、ヨット部活でわが家の庭同然にセーリングしていた頃、進学校からドロップアウト以前のありふれた高校生時代の思い出の地。

膳所高校に入学して日の浅いある日、草津の同窓、束田君から「ヨット部に入らないか」と誘われた。

私はヨット自体には興味はなかった。ヨット部など琵琶湖のある滋賀ならではの部活、あとでわかったことだが滋賀でも彦根東高校と膳所の二校だけ、これに京都の堀川高校、北陸福井のなんとか高校、計4校が近畿北陸地区にある高校ヨット部だった。物珍しさで束田君に誘われるまま入部した。

1年生の夏に2年生部員が休日に女の子を部活用ヨットに乗せて遊んだことで全員退部処分を受け、私が2年生になったときは最上級生、レギュラーになってインターハイにも出た。束田君は部長を務めることになった。

広大な海のような琵琶湖で風をはらんですべるように走るヨット、湖上セーリング自体はそれなりに楽しかった。でもいつもここが自分の居るところとは思えない違和感はあった。モチベーションはゼロ、ただずるずると部活を続けていた。

2年の終わりになると進路が問われる時期、自分がどの大学、学部に進むべきかは親の勧める有名国立大学へという以外に全く見当つかずの状態にあった。生まれて初めてぶつかる人生選択の岐路にあって途方に暮れていた。そんなジレンマを抱えたまま、やる気もないヨット部活をやってていいのか?

私は束田部長に「やめる」と宣言した。理由を聞かれて「受験勉強で忙しくなるから」と言った。それ以外にやめる理由を表現できなかった。

この後、年も明け3年生になる頃、ビートルズ「抱きしめたい」の直撃を受け長髪、そして「ならあっちへ行ってやる」と受験勉強からもドロップアウトした。部活をやめる言い訳は嘘だった。

浜大津辺りの琵琶湖を見ると、いつもこの苦い記憶がよみがえる。「受験勉強が忙しくなる」から部活をやめると言った利己心そのものの私の卑怯な言い訳が心にどんより沈んでいる。もっとほかに言い方がなかったのか・・・

束田部長は何も言わず、私の退部を認めてくれたが、彼は何を思っただろう? その束田正雄君は2年前に亡くなった。

何もかも未熟、不格好だった青春時代の苦い思い出、しかし何事もなかったかのように浜大津辺りの琵琶湖は広々と美しく満々と水をたたえている。

いま頑張ることが「罪滅ぼし」、とある同窓が言ってくれたが、私もそう思う。

キツツキと啄木

赤木志郎 2020年12月5日

秋も終わり冬の気配を感じさせるこの頃だ。木の葉はみな落ち、幹と枝のみになっている。この頃、活躍しているのがキツツキだ。冠と尾が赤いのでキツツキだとすぐ分かる。

あちこちの木の幹をつついている。虫が冬ごもりのしたくをしている頃を見はかっているのだろうか。

このキツツキを見ると、石川啄木を想い出す。啄木は木をつつくという意味だ。字を見て分かるように、石川啄木はこのキツツキ(啄木鳥)をとって筆名にした。おそらく故郷の岩手県渋民村の風景にキツツキがいたのではないかと想像している。

石川啄木の短歌は、一度、口にすると忘れられない。生活を題材にし、イメージがはっきりと湧き、読む人の心を引き込む力があると思う。何かのおりについ口ずさんでしまう。

「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」

「はたらけど/はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」

「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」

みな、中学や高校の教科書に出てくる歌だ。

赤い冠をつけたキツツキの美しさに啄木は惹かれたのだろうか。木をつつく音に聞き惚れたのだろうか。それだけではないだろう。木をつつくような分かりやすいリズムで短歌に詠ったのではなかろうか。三行で生活の歌を。

あれこれと考えながら、しばらく立ち止まって三羽のキツツキが木をつつくのに見とれていた。

匠の技。世界無形遺産登録に思う

魚本公博 2020年12月5日

「伝統建築修復の技、世界無形遺産に」との報道。11月12日、ユネスコが登録を勧告。12月14日、パリでの政府間委員会で正式に登録される見通し。

姫路城が世界文化遺産に登録されたおりには、「姫路城は何度も修復されており、古い建築物とは言い難い」として登録に疑問を呈する意見もあったと聞く。しかし、今回ユネスコは「有形文化財であり建築物である建造物との本質的な関係に光りを当てた」「無形文化財全般の重要性の認知向上に貢献する好例」として、文化遺産修復の意義を高く評価したわけである。

日本では、この間、姫路城、室生寺、唐招提寺、日光東照宮の東明門など多くの城や寺院仏閣の修復が行われた。その様子をBS放送などで見たがその精密で高度な技に感嘆したものだ。柱や梁の劣化した部分だけを取り換え以前のものと寸部も違わぬように修理する匠の技。それによって、世界最古の木造建築である法隆寺も、世界の城郭遺跡の中でも際だった美しさとされる姫路城などに今の私たちが接することができる。

日本の建築物は木造である。劣化した部分を修復しなければ後世に残せない。西欧などの石やレンガの建造物との違いである。いわば日本の文化遺産は、過去の遺産を匠の技で繋ぎ今を生きる私たちに伝えたものだ。

今回の世界無形遺産登録は、それが日本文化の際だった特徴であると同時に世界も共感する普遍的なものであることを示したということだと思う。まさに日本文化誇るべしである。

柿の木も冬支度

若林佐喜子 2020年12月5日

早くも師走。コロナ禍と豪雨・台風被害に対応する一年。朝鮮は、「禍をもって福となす」精神で立ち向かっているように思います。特に印象深いのは被災地の復旧建設、住宅建設。現地住民の世帯別棟への希望や、より文化的な農村住宅に一新する目標が掲げられ、昼夜をわかたずの大戦闘。11月末までに住宅建設はすべて完了。

先日から最低気温が零下5、6度に下がり、空気もぐん~と冷え込み本格的な冬到来です。秋に600個も大きな実をつけた柿の木も根本に稲わらを巻いてもらい冬支度。

日本人村に4本の柿の木があるのですが、2本は実が直径1cmほどの豆柿。熟すと黒褐色になりねっとりした甘さがありますが、渋感が残り誰も美味しいと言いません。豆柿の木は耐寒に強く、大きな柿の実の接木の原木(台木)として使われるそうです。宿所の前の木は数年前まで大きな柿の実をつけていたのですが、零下18度まで下がった厳冬の年に枯れ、その後、原木だった豆柿の姿に変化。豆柿は日本では信濃柿とも言うそうです。

元来、朝鮮では比較的暖かい元山でしか柿の木は生育していませんでした。品種改良が進み2000年初め頃からピョンヤンでも柿の木を見かけるようになり、今ではすっかりピョンヤンの秋の風物詩に。日本のような甘柿はありませんが、柿の木を見ているとなぜか故郷の風景がしきりに思い出されます。

何かと忙しい師走です、皆様、くれぐれもコロナ感染防止と健康管理に注意され、しっかりのりきられますように。