アジアの内の日本 2020年7月号

中谷「私案」、「辺野古基地建設見直し」の声の主は誰? 

若林盛亮 2020年7月20日

朝日新聞(7月4日朝刊)に「元防衛相・辺野古見直し私案」と題する記事が出た。記事の内容は以下の通り。

中谷・元防衛相が沖縄県知事を訪れ「政府案の見直し」を私案として伝えた。これまで「辺野古移設が唯一の解決策」に固執、沖縄県上げての反対の声をいっさい無視してきた自民党政権側の元防衛相からの「異例の申し出」と記事は伝えている。

これが果たして「異例の申し出」なのか?

「見直し」の理由は、埋め立て予定海域で軟弱地盤が見つかり、再試算で工期が12年の歳月と総工費は9,300億円に膨らんだことだ、とのことだが、こんなことは以前から指摘されていたことだ。

中谷「私案」は、移設工事断念ではなく工事の簡素化、「軍民共有」などというあいまいなものだ。しかし次期政権を担う最有力候補と言われる石破茂氏は同じ朝日の記事の中でさらに一歩踏み込んだ発言をしている。

「これしかないんだ、とにかく進めるんだということだけが解決策だと私は思っていない」、すなわち「移設計画断念の可能性」にも含みを持たせた。

先の河野防衛相の「陸上イージスアショア配備断念」もそうだが、今回の辺野古移設断念可能性発言もどこか不自然でおかしい。手のひらを返したような急激な態度変更には誰もが疑問を感じる。

案の定、「天の声」は別のところにあった。

6月9日放映のTBS「1930」では、昨年就任した米海兵隊総司令官の新方針「集中から分散」を伝えた。それは中国や朝鮮からのミサイルの精密攻撃を受けやすい沖縄など前線集中配備の危険を避け、グアムなどへの海兵隊の分散配置へと方針を転換するというものだ。

結局、「辺野古移設見直し」も沖縄よりも米国の要求を「天の声」とする構造に変わりなしということだ。

突然の「陸上イージス配備断念」の河野防衛相発言も同様の構図だった。

すでに米国は、迎撃を基本とする日米の弾道ミサイル防衛(BMD)システムの限界を悟り、敵基地攻撃を基本とする統合防空ミサイル防衛(IAMD)構想に変更している。朝鮮のミサイルが低空で上下動を繰り返す技術を持つことによってイージスでは迎撃不可能になったからだ。

「陸上イージス配備」断念も米国を「天の声」の主としたものだった。

この「天の声」はもっと危険な次元に踏み込むことを日本に求めている。

「陸上イージス配備断念」直後、「陸上配備型ミサイル防衛システム『イージスアショア』計画撤回の方針を受け、安倍政権は国家安全保障戦略(NSS)を初改定する方針を固めた」(六月二十日付け朝日新聞)

「陸上イージス計画撤回」方針を受けたという日本の国家安全保障戦略の中身、それは「敵基地攻撃能力の保有」を本格化するところにある。

すなわちミサイル防衛は「迎撃から敵基地攻撃」へ、さらには「辺野古計画見直し」を受けて沖縄から後退する米海兵隊の肩代わり、侵略の尖兵を自衛隊が担うことまでありえないことではなくなっている。すでに陸上自衛隊には海兵隊の日本版、「水陸機動団」が新設されて久しい。

TBS番組で中谷元防衛大臣は「もっともっと自衛隊が(米国の矛の)肩代わりをする」そのような「わが国独自の安全保障を考える時」と訴えた。

いま安倍政権は、自分の依拠する「天の声」に従って国家安全保障戦略改定に突き進んでいる。9月には確定の日程が組まれている。

 自衛隊が米軍の肩代わりをさせられ、朝鮮や中国との戦端をきる尖兵となる、日本は火の海になる。米国の声を圧する国民の声を集めることが何よりも重要なときを迎えているように思う。

米中対立激化の中で問われる日本の立場

赤木志郎 2020年7月20日

周知のように、最近、米中対立が激化している。とくにITをめぐって米国がファーウェイなど中国5社の製品を導入した企業にたいする取引をおこなわない措置をとった。その他、ウイグル人権法、香港自治法、南シナ海領有権否認など数え切れない。これらの措置に「制裁」をからませている。

いずれも米国がしかけた対立だ。この背景には中国が軍事経済的に強大化していくのに比して、米国の軍事経済力の衰退があるのは言うまでもない。とくにITは先端産業の要であり、中国が制覇しつつある。覇権の力が弱まった米国が中国包囲網を作ろうとし必死だ。だから、それはアメリカの強さの表現ではなく弱さの表現だといえる。

中国はさらなる米中対決の激化を予見し対応準備をすすめている。このまま対立を深めれば、ブロック圏が形成されるようになる。すでに通信5Gをめぐってファーウェイを使う国とそうでない国に分かれている。

米国はファーウェイ締め出しを日本にも要求し、日本はそれに応じている。日本は習近平主席の訪日中止を要請した。軍事でも中国を仮想敵国として久しい。米国が日本に対中国圧力の先兵としての役割を果たすよう求めてくるのは、これまでの経緯を見ても明らかだ。

しかし、一方で中国は日本にとって大きな市場、原料・部品供給地であり、貿易量で米国より中国の方が多くを占めている。これまで安全保障は対米追随でその枠内で中国との経済関係を発展させるというものであった。しかし、すでに米国の要求どおりに行動したカナダ、オーストラリアが中国の報復を受けている。安倍政権は7月に補助金を出して中国にある生産拠点を東南アジアに移すように舵をきった。つまり部品供給網(サプライチェーン)の移転をはじめたということだ。対中貿易関係が冷えると日本経済に大きな影響を及ぼす。

この問題は、米中どちらにつくかという話ではなく、覇権に組みするのかしないのかの日本自身のありかたの問題だと思う。

これまで米国に追随し社会主義国敵視や民族解放闘争圧殺など米国の覇権策動に加担してきた。米国の力が落ちてきたから今度は中国を盟主として仰いでいくのか、それともあくまで米国に従っていくのかという問題ではない。米国の覇権力が落ちてきたということは、日本が覇権そのものに反対し自立していく大きな機会となるのではないだろうか。

もしこのまま米国に従っていけば、日本が食い物にされるだけであり日本独自の発展をはかることができず、対中国敵視の手先に使われるだけである。中国が日本との対立を深めるのも時間の問題ではないだろうか。それは日本破滅の道だと思う。脱覇権、反覇権が日本を救う道であり、覇権加担は破滅の道だ。

日本は侵略戦争を行った国としてその反省として脱覇権、反覇権という立場を鮮明にうちだし、それにもとづいた米国および中国との友好関係を発展させていくことこそが、米中対立に巻き込まれない道だと思う。

「ウィズコロナ」「ニューノーマル」の欺瞞

小西隆裕 2020年7月5日

「ウィズコロナ」が言われるようになったかと思ったら、今度は「ニューノーマル」。

「新常態」という意味らしい。

だがそれにしても、この英語の乱用は、一体どこから来るのか。

ことの本質の誤魔化しではないのか。

「ウィズコロナ」とは、「コロナとの共存、共生」、

すなわち、「コロナ感染への不安や恐怖との共存、共生」に他ならない。

それが新しい常態、日常になるとは、何とも恐ろしいことだ。

だが、「ウィズコロナ」が「ニューノーマル」になる、そう言われれば、

意味が曖昧になり、何となく明るいイメージなのだ。

「ウィズコロナ」「ニューノーマル」という名の一つの欺瞞、

それは、一体、何のためなのか。

2020年7月1日現在、

全世界で、感染者は1000万、死者は50万を超えた。

その勢いに衰えは見えない。

コロナ感染完全収束の「先行」は放棄され、収束と経済の「並行」による、

「集団免疫」形成まで止まるところを知らない、

おびただしい数の高齢者、病弱者、そして貧困者をはじめとする犠牲者の続出。

「ウィズコロナ」とその「ニューノーマル」化、

それは、この苛酷な現実の受け容れでしかない。

だが、狙われているのは、それだけではない。

その不安と恐怖の下での世界の造り替えではないのか。

史上まれに見ぬ大惨禍の下、世界の、そして日本の大転換が目論まれている。

しかしそれは、絶対多数の人々の思いとはかけ離れていると思う。

人々の思いは、何よりも、コロナ感染の不安、恐怖からの解放であり、

コロナ禍を生み出した古い矛盾に満ちた世界からの解放だ。

「ウィズコロナ」「ニューノーマル」の欺瞞を打ち破る闘いが、

これから全面的に問われてくるに違いないと思う。

都知事選、何が問われているのか

魚本公博 2020年7月5日

コロナ禍の中での都知事選であるが今、東京は一日の感染者が200人を突破し危機感が高まっている。しかし、小池知事や安倍内閣は「緊急事態宣言」のような措置はとらない方針。

新型コロナは「性悪」である。感染してもすぐに症状が出ず、その3日頃が最も感染力が強いという。従って、感染しても「健康」な人(とくに若者)は、自覚しないまま、ウィルスをまき散らすことになる。また、新型コロナは変異が大きく、欧米で猛威をふるう欧米型が日本でも広がる危険性も指摘されている(現時点で日本での欧米型は18%ほど)。

いずれにしてもPCR検査を徹底するなど抜本的な対策を採らない限り、コロナを押さえ込むことはできない。しかし小池知事は、「ウィズコロナ」「東京アラート」などと何か独自のものを打ち出しているかのように見せながら政府の経済優先策に従うだけでコロナ対策はおざなりという「やったふり」に終始している。結局、欧米でのやり方を真似て「閉じたり開けたり」を繰り返すということであり、これで日本経済が正常化するなどありえない。経済人も戦々恐々だろう。

「東京を世界の金融センターにする」として都知事になった小池氏にとって経済とは、米系外資、米系金融の投資の場にするということでしかないのではないか。そうしたコロナ前の思考から抜け出ることが出来ないでいる象徴は「東京五輪」の来年開催に固執していること。だが五輪後の観光客や留学生の増加などの経済波及効果27兆円など消し飛んだ。「金融センター」の夢も消え失せた。

コロナ禍は、欧米を見習い追随することを習い性にしてきた日本の政治、国のあり方を突いている。これまでの「外」頼みのあり方を続けるのか、それとも、国民の命と生活を守る政治、「内」重視のあり方に転換するのかと。

すでに今日は都知事選投票日。「都民の命と生活を守る」を掲げ、大胆な補償策を打ち出す山本太郎氏の善戦を大いに期待している。

格差拡大を一層、助長させる「学びの保障」対策

森順子 2020年7月5日

3ヶ月ぶりに各地の学校で授業が再開され、文科省はさっそく「学びの保障」対策を示した。

コロナ禍によって、遅れた授業を取り戻すために児童生徒や先生や家庭の不安に応えることが、現実性のある「学びの保障」対策だと思うが、その中身は、家庭と学校現場への負荷と、それによる子供たちの不安がさらに増すのではないかというものだ。

それは、小、中学校の教科書の2割を「授業外で」とし、家庭と学習指導員との連携で、2割の授業内容を補完しろという内容である。保護者にとっては、やっと学校再開で一息ついた矢先に、今回の通知だ。「家庭に頼りすぎていて義務教育と言えるのか」「公教育を信頼していたのに裏切られた」という保護者の落胆の声は本当にその通りだ。そして、そのために公立中学の教員を3100人増やし、8万人以上の学習指導員を配置するとしているが、3100人をどうやって全国に3万校ある中学に配置するのか。少なくても教員5人から10人くらい増やさないと十分な指導や保障にはならないでしょう。また、毎年、教員不足が続きブラック企業並の教育現場だと言われるなかにあって、8万人以上の学習指導員を確保できるのかも疑問であり、その予算が微々たるもの。また、現場では、教えられる資質がないと現場にはマイナスであり、結果的に家庭任せになれば格差を助長することになってしまうという声さえある。

このように現実を考慮せず示した「学びの保障」対策とは、コロナ禍のために広がった教育格差を、いっそう広げ、さらに深刻化させる方針でしかない。

コロナ禍の期間、地域や家庭環境の違いによる教育格差が拡大し子供たちの学びをどう守るのかが、大きな課題だったはずだ。オンライン授業の普及も行ったが、全国の学校に行き渡らなかった。日本がデジタル後進国だったことに驚く父兄もいたが、一人一人がオンライン授業を受けられていたら進度の格差がこんなに広がらなかったはずだと言える。

まずは、オンライン学習の環境を整えることを急務の課題として保障することが、今、提起されている「学びの保障」対策の柱になると思うのだが。

-「盾から矛へ」の国家安保戦略改定-「陸上イージス断念」は敵基地攻撃能力保有への序曲だった

若林盛亮 2020年7月5日

コロナ禍渦中にあって危険な安保政策変更が火事場泥棒的に強行されようとしている。

六月十五日、河野防衛大臣が陸上イージスの配備計画停止を唐突に発表したことは国民を驚かせた。この配備は米国の強い要求であっただけに米国の反発を呼ぶとマスコミは書いた。

配備停止の理由は、「迎撃ミサイル発射時に落下するブースターが住民地域を直撃する危険性があるが、それを除去する技術開発には十年以上かかりコストも増すことが判明したからだ」とのこと。あれだけ地元の反対を押し切って強行した政府決定をこんな理由で覆したことに誰もがおかしいと思う。おかしいことには必ず裏がある。 

「陸上配備型ミサイル防衛システム『イージスアショア』計画撤回の方針を受け、安倍政権は国家安全保障戦略(NSS)を初改定する方針を固めた」(六月二十日付け朝日新聞)

では「陸上イージス断念」に代わる代替案とは? 飛んでくるミサイルを迎撃するのではなく敵発射基地そのものをたたくこと、「自衛隊の敵基地攻撃能力保有」、この実質的九条改憲そのものを日本の国家安全保障戦略の基本に据えるということだ。

そもそもこの陸上イージス配備断念の原因は、朝鮮がこの間、開発した高度を自由に変更できるミサイル技術などによってイージスアショア配備が有名無実になっていたことだ。

すでに米国は、迎撃を基本とする日米の弾道ミサイル防衛(BMD)システムの限界を悟り、敵基地攻撃を基本とする統合防空ミサイル防衛(IAMD)構想に変更した。安倍政権の国家安保戦略改定は、これを日本も取り入れるということ、いわば日米の「出来レース」だ。

「陸上イージス断念」を受けた十九日のTBS番組で中谷元防衛大臣は「もっともっと自衛隊が(米国の矛の)肩代わりをする」そのような「わが国独自の安全保障を考える時」と訴えた。

敵基地攻撃能力保有の自衛隊が専守防衛を捨て米軍「矛」の肩代わりをする国家安保戦略への改定、これがコロナ禍渦中で火事場泥棒的に白昼堂々と行われようとしている。

「陸上イージス配備断念」は地元住民の要求に沿った形を取っている。これと同様、「時間とコスト」の理由で沖縄の「辺野古基地建設断念」の可能性もあると先の番組でぬけぬけと中谷氏はもらした。それは侵略の先兵、米海兵隊の「肩代わり」を自衛隊にやらせるということに他ならないのではないだろうか。(「救援」615号 2020年7月)

豊かな未来のための試論として

森順子 2020年7月5日

コロナ禍は、教育にも大きな打撃を与えた。教育現場、地域や家庭環境の違いによる教育格差がますます広がり、日本は教育最貧困国であることを隠せなくなった。

コロナ禍で、長引く一斉休校に対する子どもの学びさえ守ることができない現実だ。

デジタル教材を使えたのは、1213小中校の29%で、双方向型オンライン指導はわずか5%、それも私立学校の一部だけの普及となった。大学でも通信環境が整えられない学生が多く出た。学校間のデジタル格差とともに、授業を受けられる生徒や学生と受けられない子、それによる家庭への負担、家庭環境の格差も問題にされた。先進国と言われる日本が、こんなにも教育面で遅れているデジタル後進国だったことに驚く父兄がいた。コロナ感染拡大の中でも、韓国、中国では、オンライン教育は支障なく行なわれ授業は保障されたというが、日本との違いはどこにあるのか。

また、コロナ禍によって、優秀な学生が学費を払えず大学を辞めていく現実だ。

アルバイト生活や学生ローンを抱えた若者も数多くいるはずだが、コロナのために「学生支援緊急給付金」を受けられるのは、たった一割程度の対象だという。そんな中、大学が12校もある八王子市では、市に在籍する学生全員に5万円給付すると公表した。本来なら国が補償しなければならいことだが、八王子市の「人間性」は、育てるべき人材を大切にしようとする現れだ。だが、その一方、日本は全体として若者や次世代に冷たく冷酷な国だということを露わにした。

コロナ禍によって深刻化された日本の教育環境の格差は、新自由主義とグローバーリズム政策に、その根源があるのは言うまでもない。新自由主義は医療や教育など国民に必要な国の公共的役割や部門を民営化と規制緩和により崩壊させてきた。その一つに、教育予算も削減され続けてきた。OECD諸国のなかでも日本の教育予算はGDPに対比してみると最下位。また、10年間を見ただけでも中国は10倍以上、韓国も5倍近くと、科学研究費は毎年伸びているが、日本だけは毎年、約1%ずつ削減され、日本の科学技術研究は地盤沈下が指摘された。日本がデジタル後進国だと言われても仕方ないということだ。

また、教育のさらなるグローバル化促進のために、「国際基準に合わせる」という名目で9月入学構想が浮上した。しかし、コロナ禍で授業の遅れやきびしい生活を余儀なくされている学生への配慮と補償をおろそかにし、優秀な海外のIT人材の獲得競争を目的とした「国際基準」とは、何のための国際基準かだ。ましてコロナ禍で弱さをあらわにした今の欧米にまだ国際基準を求めるのかということだ。

教育、科学技術の発展は国の発展であり、元来、国が責任をもつべき重大事業であるはずだ。しかし、新自由主義、グローバーリズムで国家の役割が否定されることにより、低下した日本の教育、科学技術水準が、コロナ禍で、一層はなばなしく低下したとさえ言えるのではないか。このような最悪の状況の中で、国家の役割、責任が切実に問われてくる。国家の役割を高める必要が言われはじめてきている今こそ、教育、科学技術の新しい発展を図るときではないだろうか。

現代は知識経済時代であり、科学技術の発展は国の発展だと言われるとき、日本の科学技術教育に力を入れ、日本の将来を担う優秀な人材を育成していくべき。

東アジア諸国ができて、わが国はなぜできないのか

赤木志郎 2020年7月5日

アジアの一角で生活していて日本を見るとき、どうしてもアジア諸国との関係で日本を考える。

新型コロナウイルス禍にあって、日本は感染者、死者が少ないとよく言われている。しかし、それは新自由主義により医療崩壊を起こしてきた欧米諸国との比較にすぎない。

近隣の東アジア諸国と比べれば、日本が死者の割合がもっとも多い。人口100万人あたりの死亡数を見てみると、日本6人、韓国5人、シンガポール4人、台湾1人以下、ベトナム、朝鮮ではゼロだ(5月下旬時点)。

最初、中国や韓国で感染者が多かったが、今や制圧に成功し、生産活動を再開している。今でも感染者が出ているが、それは主に他国からの入国者からであって、他国でウイルス感染者が多い中、必然だといえる。また、隠れていた感染者からの感染もありえる。だから、コロナウイルスとの戦いは続けていかなければならない。しかし、それはコントロール下のあるもとでの感染出現であり、日本のように無症状感染者が多数存在しているもとでの感染者拡散とは性格が異なっていると思う。

国内で無症状感染者が多く、世界でコロナウイルスの感染拡散がさらに増大し続けている状況で、コロナウイルス対策を強化していかなければならない。

このとき、東アジア諸国の経験を学ぶことが重要だと思う。これらの国では感染検査を大々的におこない、無症状感染者をみつけ隔離、治療することによって感染拡大と重症化を防いだことだ。ベトナムと台湾、朝鮮は武漢に感染者が出た段階ですぐに国境を封鎖し、感染を防いだ。さらに検査キットの開発、マスク・防護服の生産、生活必需品の蓄積、スマホなどを使った経路追跡、オンライン授業の活用などがある。

それができた要因は、国家の役割が決定的だったといえる。なぜ国家の役割を果たすことができたのだろうか。

中国、ベトナムなどが共産党支配下にあり、台湾も含め強権でなされたからだという説がある。しかし、いずれの国もコロナ対策で国民の圧倒的支持を受けている。それを強権だというのだろうか。

東アジア諸国のほとんどはかつて植民地であり、民族解放闘争を繰り広げ、独立を達成した国々だ。だから国家の重要性を体験しており、同時に国民の民族的絆が強いといえる。コロナとの戦いを国を守る戦いであることを理解し、外出禁止措置にたいしても助けあいながら耐えていくことができたと思う。

私たち日本人の場合、国家にたいする信頼、その役割を発揮していくことについて民族解放闘争を経て国家の大切さを身に沁みて理解している東アジア諸国の多くの人々とは違うのかもしれない。とりわけ、戦前、軍国主義の横暴を体験し、国家を信じてはならないという考えが強いともいえる。私自身そうだった。そういう意味で、アジア諸国の人々が国を奪われたのとは違うが、私たちも真の意味での自分たちの国をもつことが奪われたといえるのではないだろうか。

日本という国はある。しかし、ほんとうの国民のための国がない。米国に従属しその手先となって覇権をおこなっていく国家だと思う。

国家を国民支配と他国にたいする覇権の道具とする限り、国民のための医療体制を築くことも、したがってコロナウイルス制圧もすることはできないだろう。

コロナ禍と戦っていくことできる国家として、国民支配と他国への覇権のための国家ではなく、ほんとうの国民のための強力な国家を作っていくことだと思う。