アジアの内の日本 2020年9月号

石破「アジア集団安保」と米「アジア版NATO」QUADの親和性

若林盛亮 2020年9月20日

9月9日、自民党総裁選に臨む政策として石破は「アジア集団安保」を提唱した。これに先立つ8月31日、米国が「アジア版NATO」構想を持っているという報道が流れた。注目すべきはこの二つの構想が大きな親和性を持っていることだ。

スティーブン・ビーガン米国務副長官は8月31日、米印戦略的パートナーフォーラムで、インド太平洋地域には「明らかに北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)のような多国間構造がない」としたうえで、(クアッドと呼ばれる)4カ国(米、日、インド、オーストラリア)が先に始めることも非常に重要であろう」と述べた。

かねてからトランプ政権は、日本を中心パートナーとし、2017年11月に「自由で開かれたインド太平洋」を両国の共同戦略にすると共に、米国防総省は2019年6月に「インド太平洋戦略報告書」を発表し、韓国や日本、オーストラリアなどインド太平洋地域の同盟国・パートナー国と力を合わせて中国の挑戦をはねのけ、地域の覇権を維持する意思を明らかにした。米国はこうした決意を誇示するかのように、同時期にアジア太平洋軍司令部の名前を「インド太平洋軍司令部」に変えた。

今回の「アジア版NATO」、クアッド(QUAD)構想は「インド太平洋戦略」を更に一歩進めて中国包囲のアジア集団安保?軍事同盟構想に踏み込んだものだ。

石破の「アジア集団安保」構想はこれと親和性が高い。石破はその際のモデルとして、アメリカとオーストラリア、ニュージランドの3国が結ぶ「ANZUS(アンザス)同盟」を挙げるが、これは米国のクアッド構想(米・日・インド・オーストラリア)を念頭に置いたものと見るべきだろう。

これとの関連で最近の石破は敵基地攻撃能力保有に積極的に動いている。石破自身は語らないが、石破の盟友、中谷元防衛相の積極的発言が石破の意思がどこにあるかを示している。

「いつまでも抑止力(攻撃力)を米軍に任せたままでいいのか」「もっと米軍の(矛の)肩代わりをすべきだ」(中谷)の言葉が示すように、自衛隊が専守防衛を脱し「米軍の矛の一部を担う」、攻撃能力を保有する、それは実質上、日米安保を「米軍が日本を守る戦争をやるが、矛を持たない自衛隊は米国を守る戦争はできない(やらない)」という現在の片務同盟から、「自衛隊も矛を持ち米国を守るために参戦する」攻守同盟に改定するということだ。

これは米国が要求する「アジア版NATO」、クアッド構想、中国包囲の軍事同盟への参加に道を開くものだと見てよい。この意味で石破は危険な親米派だと言える。

いま米国は米中覇権戦争、米中新冷戦時代を演出し、どちらの側に付くかを世界に迫り、特にわが国には鋭く迫っている。従来、自民党政権がとってきた「中国とも悪くはしない」姿勢は許されなくなる。石破「アジア集団安保」は中国敵視の米側につくことを明言するものに他ならない。

石破を「危険な親米派」と見たとき、自民党総裁選をめぐる二階、菅による「石破はずし」クーデターの隠れた争点は「米中新冷戦」に対する態度問題にあり、「中国敵視までして米側に付く」ことをちゅうちょする勢力が保守勢力にもいるということを示すものではないだろうか。

公務員、医療分野で雇用創出を

赤木志郎 2020年9月20日

コロナ以前から格差がもっとも大きな社会問題としてあった。アベノミクスにより大企業と金持ちがますます肥え太り、勤労者、貧困層はいっそう貧困化していった。その格差の拡大をコロナ禍がさらに加速させている。

コロナ禍は経済活動の停滞をもたらした。需要の極端な落ち込み、人と人の接触や移動制限から製造業、観光業、宿泊業を筆頭にほとんどの産業が打撃を受けている。デジタル関連などネット産業だけが大儲けしている。このなかで、非正規労働者の雇い止め、倒産による解雇、小規模事業者の破産など急速に増えている。雇い止め・解雇が5月初めでは4千人台、5月中旬では7千500人、8月末に5万人を超えた。毎月1万人のペースで増えているという。実数は事業所の報告にもとづく統計上よりもっと多い。これまでの社会保障費削減、消費税増税のうえでの雇い止めなので生活破綻を避けることができないという。

もっとも打撃を受けているのは派遣労働者だ。安倍首相は辞任表明時、「400万人超の雇用を生み出した」と成果?を誇ったが、生きるために必死に働いている人々、そしてその職さえ奪われていっている現実が目に入らないようだ。解雇が少ない正社員に比べ、非正規労働者の使い捨てが経済危機のときに如実に表れる。登録型派遣労働者をはじめ非正規労働者が使い捨ての駒、景気調節弁というあり方を抜本的に一掃すべきときが来たと思う。

非正規労働者を大幅に増やしたのは、利潤のみを追求する新自由主義改革の重要な一環からだった。人々にとって働き場所は、生活費を稼ぐと共に社会に寄与していく甲斐ある居場所だということができる。それを新自由主義改革により単なる企業のための使い捨ての駒に落としこめられた。

だから、根本的には、国と社会が人々に安定した職場を保障するために雇用するという考え方に抜本的に転換させていかなければならないと思う。

また、これまで民営化により公的部門における人員削除がなされてきたが、医療、社会保障などにおける大幅な雇用を創出していくことだと思う。保健師、看護師、介護従事者、そして地方公務員の境遇を改善し、その雇用を大々的に増やすことだ。そうすれば、どれほど社会における不安感を解消することができるかわからない。

安心して働くことができる国にすること、そして医療・社会保障分野と地方公務員を増やすこと、それがコロナ後の社会の目標になるのではと思う。

そのためには、財政的裏付けが必要となるが、これまで削減してきた企業と高所得層税金優遇措置をやめ、法人税の累進課税と所得税の累進課税の強化を行うことで、山本太郎氏の試算で29兆円をひねりだすことができる。さらにアメリカからの不要な武器爆買いをやめれば財源問題を解決することができる。

アメリカと財界のための国ではなく、国民のための国にしてこそ、働く人々の要求を実現していくことができる。

問題とすべきは国の責任、「ウィズコロナ」自体だ

小西隆裕 2020年9月5日

「夜の街」が問題にされたと思ったら、次は「家庭内感染」。それに「職場クラスター」や「院内感染」もある。

いろいろとコロナ感染源、感染要因が挙げられること自体は悪くない。コロナ禍にどう対するのか、一つの行動の指針になる。

しかし、もう一つ割り切れないものがある。

それは、これらがすべて、自己責任に関するものだからだ。

国民一人一人、一つ一つの単位が自分で注意しろ、そこに問題があるということだ。

だが、責任とはそういうものなのか。

それぞれの役割に応じてあるのが責任というものだ。

実際、国民一人一人、一つ一つの単位に責任があるように、国には国で、当然、その役割に応じた責任があるのではないか。

なのに国は、自らの責任は棚に上げ、国民一人一人、社会的単位一つ一つの責任ばかりをあれこれ言っている。

そこに何か割り切れないものを感じるのは、一人私だけなのだろうか。

では、国の責任と言った時、それはどんなものなのか。

国には、国民を前にして、国のあり方、進むべき道を決め、それを遂行する役割があり、責任がある。

それが誤っていた時には、国民の前にその誤りを明らかにし、総括し、正すのが重要な役割であり責任だと思う。

今日、「新型コロナ」禍にあって、「夜の街」を問題にするのもよい。

しかし、その幾層倍も重要なのは、

コロナとの共存を日常化し、その収束、封じ込めのための決定的な対策を講じることもなしに、人々に不安や恐怖との出口の見えない共存を強いる「ウィズコロナ」という国家戦略そのものを問題にすることではないだろうか。

あなたが、それを言うか

魚本公博 2020年9月5日

萩生田文部科学相が新学期を前に学校関係者、学童・生徒、保護者に向けてメッセージ。全国の学校で集団感染が相次ぎ感染者らへのいじめや誹謗中傷が起きている中、「誰もが感染する可能性がある」のだから「感染者を責めないで」と。

これを聞いて憤然たる思い。政府のコロナ対策は、ウィズコロナであり、コロナを封じ込めて国民の命と暮らしを守るという姿勢自体が全くない。こうして、全国の学校で集団感染が起きる事態になってしまった。それを「誰もが感染する可能性がある」とは、政府の要職を担う者としての自らの責任に対する自覚が全くない。

コロナに感染する不安と恐怖との共存を強いておきながら、その感染源となりうる人を白い目で見るのを「誰もが感染しうる」のだから「責めるのは止めよう」などと説教することなどできないのではないだろうか。

原因は政府がコロナ封じ込めをやろうとしない所にある。それを「誰もが感染する可能性がある」とごまかし、そのことによって生じる「いじめ・誹謗中傷」を取り上げて、これをたしなめるかのようなメッセージ。政府の閣僚であり、教育を担当する文部科学相が「それを言っちゃおしまいでしょ」なのであり、まさに、あんたが、それを言うか、なのである。

政治の責任とは?

森順子 2020年9月5日

新型コロナウイルスの国内の状況を「今まさに第2波のまっただ中にいる」、「大きさからみて第2波ととらえるのが適切ではないか、状況を理解しできる対策をとることが大事だ」

こう分析したのは、感染症学会理事長であり、厚生労働省の助言メンバーであり、政府の感染症対策分科会の構成員でもある舘田氏です。

そして、2日後の21日、やはり政府の分科会の専門家である尾見氏が、「ピークは過ぎた」という見解を発表した。

政府の分科会にいる二人の感染症専門家の、この真逆の状況判断は単なる食い違いなのか。

どちらの言っていることが正しいのか。

どっちを信じれば、コロナから身を守れるのか。

ところが、その後すぐに、厚生労働省に助言する専門家組織は、政府の分科会と同様の見方を公表し、結果的に舘田氏の見解を否定することになった。

これは何を意味するのかです。

政府の主張に従う専門家をつかって、コロナへの警戒感を麻痺させるための国民騙しだという他ありません。

コロナ封じ込め対策も何もない無策の政府の下にある分科会は、いずれ人々の信頼を失い、コロナ対策では重要な役割を果たしてきた専門家は信用されず、そうなれば、コロナ対策の政府の指示に誰が従うようになるのだろう。コロナ感染はますます悪化し治まらないのではないかと思います。

社会全体が心配と不安の中で困っているとき、「国民の生命と暮らしを守る」役割の政府が、それに応えなければ、その存在理由などありません。これはコロナ禍の中で人々が心底、訴えたいことであり、国民を第一に考える政治と国の姿を望んでいるということでもあります。

それゆえ、国民皆が次の首相を注視しています。これまで以上に政権に対する国民の視線が厳しくなるのは違いないと思います。