議々論々 2019年9月号

日韓関係に見る「大人の対応」

小西隆裕 2019年9月20日

日韓関係が最悪になる中、韓国の対日姿勢を「子供の対応」と蔑視し、日本は「大人の対応」を取らねばという論調が目立つ。

そこで思うのは、「大人」と「子供」を分ける基準は何かということだ。

それにはいろいろあるだろうが、子供から大人になるとは、何よりもまず、人のこと、周りのことを考えて言動できるようになることを言うのではないか?

子供は、往々にして、人のこと、周りのことにまで思いが至らず、自分中心に言動してしまうものだ。

そうであるなら、日本が韓国に対し「大人の対応」を取るとは、どうすることだろうか。

それは、何よりもまず、徴用工や慰安婦の問題など、韓国の人たちがなぜそのように出てくるのか推し量ることではないだろうか。

韓国の人たち、政府が日韓条約で一端決めたにもかかわらず、敢えて賠償を請求してきたのに対し、「国家間での取り決めも、国際法も何も知らない『子供の対応』だ」と蔑視し、嘲るのは、それこそ「子供の対応」なのではないだろうか。

-「嫌韓」から「好韓」、発想の転換-世界の誰もやらなかった「植民地支配の反省」を!

若林盛亮 2019年9月20日

徴用工問題に端を発し極限に達した観のある日韓関係悪化は、国民的次元で「嫌韓」感情を巻き起こしている。もちろん政府、マスコミがこれを煽っているからだが、他方で国民の側にも「いったいいつまで謝罪を続けるのか?」という韓国に対するうんざり感というか、うるさい感があるという事実も無視できないものだ。

戦後(南北朝鮮では解放後)、朝鮮や韓国では日本の植民地支配は「亡国の民」の運命を強いた日本国の罪悪だ、というのが共通の民族感情であり公認の歴史認識だ。ところが戦後もわが国では「日本は韓国を併合した」としか教えない、当然「植民地支配は罪悪」という実感は薄い。私自身、朝鮮に来て初めて主権を奪われ、自分の言語も名前も奪われ日本式に変えられたことが自分の魂まで奪われたに等しい民族的屈辱だということを知った。

戦後の日本は、「敗戦の総括」すなわち対米英戦争に負けた反省はあっても朝鮮や中国、アジア侵略―植民地支配に対する反省はいっさいなかった。

私の小学校五年生時の鮮烈な違和感体験-戦後民主主義教育のリーダーと言われた教師が「中国人捕虜刺殺体験」を悪びれることなく得意げに生徒に語ったが、その教師にすれば「捕虜=反日匪賊」を刺殺することは日本国兵士として当然の行為、なんら罪悪感を感じないことだったのだろう。これは極端な例かもしれないが程度の差はあれ、多くの国民が朝鮮、中国、アジアの人々が武器を取ってまで日本に反抗したことの正当性、植民地支配への反抗ということへの本質的理解が不足しているのは事実ではないだろうか。

戦勝国、「反ファッショ連合国」側の米、英、仏にしてもその点は日本と変わるところはないどころか、もっと悪質だ。戦後、英国はガンジーの非暴力運動はじめインド独立闘争を過酷に弾圧したし、フランスはベトナム、アルジェリアの反植民地独立闘争に対し強大な軍事力行使、戦争で臨んだ。米国は親米傀儡軍事独裁の新植民地主義国家、南ベトナム固守のため世界を揺るがすほどの大規模なベトナム戦争を強行した。

日本のみならず戦後西側世界は、植民地支配自体を悪とすることはなく、新植民地主義、そしてグローバリズムなど形を変えて他国侵略の帝国主義的支配体制を維持してきた。

グローバリズム破綻後の日本を初め米国、EUといった西側世界が「危機からの脱出」に苦しんでいるが、植民地支配を反省することなくきたことのツケがいままわってきたのだとも言える。いま韓国から厳しく突きつけられている「植民地支配に対する反省」は、戦後世界が未解決のまま放置してきた問題、西側世界が回避して来た自己の罪悪に向き合うこと、これをまず日本人が率先してやれるかどうかを試すものだとも言える。

安易に「嫌韓」に逃げ込むのではなく、ある意味で韓国が世界に先駆けて日本が立ち直れる千載一遇の機会を与えてくれたのだと「好韓」「謝韓」へと発想の転換をするのが日本のためになることではないだろうか。

親日残滓の清算

赤木志郎 2019年9月20日

現在、韓国・文政権は「親日残滓」の清算を全面的におしすすめている。

親日残滓というのは、植民地時代に日本に協力した朝鮮人の評価を見直すということであり、日本に親近感をもっている人々を排斥するという意味ではない。すでに光州では調査が済み、その清算が終わっているそうだ。清算というのは、例えば親日派が作曲した校歌を新たに作曲しなおしたり、石碑(墓?)を倒し親日分子であったことを明記したりすることである。分厚い親日分子を網羅した事典まである。

文大統領によると、元来、74年前の解放直後に行うべきことがアメリカの統治により親日分子が支配層にそのまま残ったため、今日までできなかった、現在、全面的に取り組むと述べている。

この親日残滓の意味は、日本の植民地支配に積極的に協力したいわゆる親日派(例えば、皇軍に忠誠を誓った朴元大統領など)を民族反逆者として糾弾するところにある。

つまり、日本に植民地支配の反省と謝罪、賠償を要求するとともに、韓国内でも植民地支配を支えた人々の犯罪を明らかにするということだ。だから、対外的に日本にたいする植民地支配の反省と賠償を求めると同時に、自らも反省しようという主体的な態度だといえる。

韓国における親日清算はそれほど日本で報道もされていないし、問題にもされていない。しかし、韓国・文政権の植民地支配にたいする主体的な姿勢を見ると、日本こそが主体的に植民地支配の反省と賠償をおこなっていかなければないのではないかと思う。

左右を現実が超える

魚本公博 2019年9月20日

以前、「富山=北欧論争」について書いたが、最近、その原本である井出英策さんの「富山は日本のスェーデン」を入手することが出来た。本を読んで知ったことの一つは、井出さんが10年以上も「フィードワーク」として富山現地で直接、人々の話しを聞きながら分析したものであり、そこに説得力を感じたということ。そして井出さんの富山愛。脳内出血で生死の境をさまよい一命はとりとめたものの将来への不安に苛まれる中、「最後の思い出作り」をしたくて家族と共に富山を訪れ、そこで感動的な時間をもつことができ、生きる力を得たという。そうした井出さんの富山への感謝と愛を文章のはしばしに感じた。

井出さんに対しては、色々と批判もあるが、人柄の誠実さ温かみも併せ、その問題提起にはもっと耳を傾けるべきだと思った。

その核心の一つは、「保革左右を現実が超える」ということ。「僕たちは、少子高齢化、人口減少、経済の停滞というトリプルパンチが直撃する歴史の転換点に立たされている。嵐に飲み込まれた船のなかで言い争いをしていてもしかたない。だからだ。思想の線引きに執着するのではなく、よりよい明日を切り開こうとする人間の営みに光をあてるのだ」と。

人間の営みは、「日本の根底にある土台、風土、習慣のようなもの」の影響を受けている。それが「現実」。しかし、リベラルな人たちは往々にして、それらを古い因習のようなものとして捉え排斥・批判する。しかし、「地方消滅」や「限界集落」が言われる、地方地域の現場では、生き残り、生活を守るための必死の努力がなされており、古い因習のようなものも「助け合い」のような共同性を生かすものとして活用され、そこでは左右の違いなど関係ない。まさに、「左右を現実が超える」のが「現実」なのだ。

最近、岡田憲治さんの「なぜリベラルは負け続けるのか」など、多くの政治学者や研究者が、もっと現実の中に入り、人々の要求を分かって、選挙争点や政策を出すべきではないかなどと問題提起しているのを見かけるようになった。

イデオロギーの違いに囚われず「現実の中に入り人々の心を知る」ことを第一にする。そうすれば左右の垣根を超えて一つになれる。そうした志向が至るところで見られるようになったのも新しい政治を希求する人々の要求、時代の反映だろう。

私は、これはアイデンティティの問題だと思う。沖縄では「イデオロギーでなくアイデンティティ」として左右で対立するのではなく、沖縄というアイデンティティでオール沖縄が一つになり、沖縄の問題を考え解決していこうと。日本全体でも、左右の垣根を超えて日本というアイデンティティで一つになり、日本の問題を日本国民全体が考え解決していく、それが今求められていると思う。

なぜ、社会保障改革を経済再生相が担当なの?

若林佐喜子 2019年9月20日

11日に、第4次再改造安倍内閣が発足しました。安倍首相の記者会見での発言内容を見ると、憲法改正について、「自民党立党以来の悲願」とし「必ずや成し遂げていく」と並々ならぬ決意表明。

社会保障改革では、「全世代型社会保障検討会議」を新たに設ける。70歳までの就労の確保、年金受給開始年齢の選択技の拡大などの改革を進める。また、全世代型社会保障改革・担当の西村康稔経済再生・財政相を中心に「新しい社会保障制度のあり方を大胆に構想してまいります」と語る。

「全世代型社会保障・・」「70歳までの就労の確保」「年金受給開始年齢の選択技の拡大」と言われると、なんとなく耳ざわりが良く、子供からお年寄りまでみんなが安心できる社会保障という幻想を抱いてしまう。

しかし、その中身は、70歳まで働けと言うことだし、現在の65歳年金受給開始年齢を70歳に引き上げたい。さらに、社会保障改革というなら、厚生労働省の管轄、責任で行うものなのに、経済再生・財政相が担当ということからも、一体誰の利益を守るための「全世代型社会保障検討界会議」なのかな?と、つい心配になる。そのようなものを大胆に構想して欲しくないと思うのは私だけだろうか。

いつもと違う改憲への動き

小西隆裕 2019年9月5日

「改憲」を党是とする自民党政権の歴史は、「改憲策動」の歴史だと言っても過言ではないだろう。

だが、今回の改憲への動きは、いつもとは違っていた。

何よりもまず、参院選の争点に積極的に「改憲」を掲げたことだ。

これまで、自民党が国政選挙で掲げてきた争点は、基本的に「経済」だった。

「憲法」が掲げられたことはなかったのではないか。

いろいろ騒ぎ立てる時はあっても、選挙の争点にされたことはなかったと思う。

もう一つは、改憲に必要な議席数、「3分の2」に対する異常なまでの執着だ。

国民民主党へ静岡選挙区で票を回し恩を売ったこと。

「N国」を登場させ、反体制派浮動票の「改憲」への取り込みを図ったこと。

参院選後の「N国」代表、立花氏の改憲派宣言と「N国」への改憲派議員の合流は、その証左ではないだろうか。

改憲議席3分の2に4人少なくても、「安倍首相、満面の笑み」の背景には、こうした事情があったのだ。

そして何より、いつもと違うのは、こうした「動き」の背景に、トランプ米国による「日米安保改訂」「有志連合参加」のかつてなかった強い要求があったということだ。

そのために、「改憲」は避けて通れない。

安倍政権が秋の臨時国会で「改憲」を審議会での第一議題に挙げてくるのは確実だ。

来年の「オリンピック景気」を考え合わせる時、今回の「動き」は尋常ではない。

心した闘いが問われているのではないだろうか。

日韓・日朝友好の民間運動を!

赤木志郎 2019年9月5日

現在、日韓・日朝関係は国と国との関係では、最悪だ。断絶状態にある。そうした中、国と国がそうであっても、隣国との友好関係を民間段階で築いていくことが今、問われていると思う。

それは、政府にたいし朝鮮・韓国への蔑視、敵視をやめよという運動であり、日韓・日朝友好を国民レベルで強めていく運動だ。

韓国・朝鮮はもっとも近い隣国だ。歴史的文化的に密接な関係があった。歴史的に見て、日本が朝鮮半島に出兵したことは3回あった。白村江の戦い、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争、そして明治以来の朝鮮半島の植民地化のときだった。いずれも日本側の手痛い敗北に終わった。反対に、友好関係を築いたのは徳川政権の時だった。このとき、多くの文化的交流があった。

結局、平和で友好関係を築いてこそ文化的交流で多くのものを得ている。反対に敵視し侵略するとき、日本自身が多くの兵士が犠牲になり、大きな損失を蒙っている。

平和と繁栄のためには、まず隣国との友好関係を築くことだと思う。

隣国との友好関係を築くためには、相手国を蔑視せず、尊重し、相手国をよく理解していくことが一番、大切ではないだろうか。

河野外相のように韓国大使にたいし怒鳴りつけるような言動はもってのほかだ。恥ずかしいくらいだ。私たちは朝鮮・韓国のことについて知らないことも多いのではないだろうか。彼らとしても、わざと日本を非難しているのではないだろう。そこに理由があるはずだ。安倍政権・マスコミの目ではなく、自分で朝鮮・韓国のことを知り、理解を深めることからはじめていくことだと思う。

安倍政権の嫌韓政策と反対に、民間で日韓友好を深める運動が起こっている。8月15日の光復節(解放記念日)の集会に「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行員会」の高田健さんをはじめ日本の多くの団体が参加し、安倍NO!キャンドルデモに参加した。国内でも「日韓市民交流を進める『希望連帯』の集会」、「朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!市民連来行動委員会」の集会がもたれている。

9月1日は防災の日だが、かつて関東大震災があった日だ。このときに東京は壊滅的な打撃を受けたとともに、「秩序保持」の口実で5千名以上の朝鮮人を殺害した日でもある。この慰霊祭には右翼の妨害があるとともに、それを断固、阻止し、慰霊祭を行っていこうとする良心的な人々がいる。

日韓・日朝友好の運動は、朝鮮・韓国を蔑視し敵視する安倍政権との闘いの重要な一環だと思う。それゆえ、隣国との友好関係を発展させるために交流・連帯運動を強めていかなければならないと思うし、またそうなると思う。