「制裁」に滲みでる安倍首相の道徳的荒廃

赤木志郎

朝鮮にたいする生産物全面輸出入禁止を実施したのは随分前だ。最近では、女子サッカー東アジア大会で朝鮮チームが優勝し、最優秀選手賞を受けた朝鮮の選手にも制裁を理由に賞金を渡さないなどの嘲笑を誘うことまでやっている。

さらには、欧州の中小国を歴訪して援助をばらまきながら制裁強化の言質を得る、日本海などで朝鮮籍船舶が他国の船舶と荷を運び入れているのを監視する、中国東北部で朝鮮産海産物が売られているのに騒ぎ立てる、さらには漂着する漁船を見て、朝鮮に対する制裁が効いていると公言する政府。

このような報道に接するたびに私は背筋がぞーっとする。他国民の苦しみを喜ぶような人が首相の座にいるからだ。

朝鮮にたいする制裁はこれまでの歴史をみてもかつてない厳しいものだ。ほとんどの物資の出入りをできないようにしている。制裁が「罰する」という意味であるように、朝鮮にたいする戦争と同じだ。核とミサイルの開発を続ける朝鮮が「国際社会」に脅威だからとして「制裁」を加え罰するという。その「制裁」の先頭に安倍首相が立っている。

かつて私たちは大義のために多少の犠牲は仕方がないと考えていたことを反省し、一人を犠牲にする大義には大義はないということを教訓とした。安倍首相にとって核とミサイルが脅威であり、その開発を止めさせることが「大義」かも知れない。しかし、その「大義」のために、皆、餓死してしまえというような精神道徳の荒廃に言葉を失ってしまう。そんな「大義」が大義であるはずがない。

すでに「戦争を煽るな」「対話をおこなえ」というデモが起こっている。かつての侵略の歴史を思い起こすまでもなく、隣国朝鮮との友好関係を築くことこそが、日本の尊厳と平和を実現する道ではないかと思う。