反米こそ、真正と似非を区別するカギ

魚本公博

西部邁さんが亡くなった。
マスコミや多くの言論人が哀悼の辞を。それを見ながら私が違和感をもったのは、西部氏の「反米」性を強調するものがほとんどなかったことだ。

「言論界は貴重な人を失った」。「保守を思想レベルまで引き上げた知性は、左右を問わず多くの知識人の尊敬を集めた」「ネット右翼に媚びず、保守とは何かの神髄を説き続けた偉大な思想家であった」。

「反米」を指摘したかに見えるものも、「親米の論客からは『反米』と批判されたが、最大の問題意識は独立の精神を失い、米国頼みになった日本人に向けていた。いつも『今の日本人は・・・』と憤りを語っていた」などと、日本及び日本人を批判したことに重点を置き、氏の「反米」性を強く浮き彫りにしてはいないと思う。

「保守を思想レベルにまで引き上げた保守論客」「保守とは何かの神髄を説き続けた偉大な思想家」として、賛辞を送るのは良いが、西部氏をして他の保守論客と違うものは何だったのか。それを指摘しなければ本当の賛辞にならないし、本当の追悼にもならないのではないか。

氏が、真正保守たる所以、保守の神髄を語ったとされる所以は、その「反米」性にあると思う。

私が、そのことを思ったのは、「アホ、腰抜け、ビョーキ」(2003年発行)を読んだときからである。この本は、米国ブッシュ大統領がイラクのフセイン政権を打倒するとして武力侵攻を敢行したことを契機に小林よしのり氏との対談として出されたもの。

そこには、右派論客と言われる人たちが、諸手を挙げて米国の侵略戦争を支持、賞賛することに唾棄するような嫌悪感が表明されている。それは本の表題を見ても分かるし、最初の項目「恋人でも恩人でもないのに、むやみにアメリカに抱きつくな」というのを見るだけで十分に分かる。

結局、氏が唱える「真正保守」とは、その根本に「反米」があるということである。
西部さんは、戦後日本が米軍の占領で始まり、講和条約で「独立」を果たした後は、日米安保条約で米軍の駐留を許すという「占領状態」が継続したという認識を持っている。その「占領状態」からの脱却を説くことなく、逆に米国に頼り、擦り寄る「保守」など「バカ、腰抜け、ビョーキ」の似非「保守」でしかないということだ。

今、朝鮮問題をもって、これを「国難」としながら、米国にいっそう擦り寄り、自らその指揮の下で朝鮮との戦争を煽るような「保守」言動が巾を効かせている中で、西部さんの説く「真正保守」の言説は傾聴すべきものを持っている。

反米なくして「保守」はなし、反米なくして、時代の流れを見ることも出来ず、日本のあり方を探ることもできない。

これが、西部さんの死去、その追悼で、氏の「反米」性が浮き彫りにされていないことへの違和感をもった私なりの結論である。

西部氏は、亡くなられる直前、周囲の知人に「俺、北朝鮮ファンになりそうだよ」と言っていたそうである。「反米」の立場からの朝鮮への共感。米国のポチたらんとする安倍政権や右派の「アホ、腰抜け、ビョーキ」ぶりへの嫌悪感・・・。

私は西部さんの言説を全て支持するわけではない。しかし、その「反米」性は断固支持、擁護するし、そこに西部さんの真骨頂があるのだと思う。

「反米の人」、西部邁さんの冥福を心から祈るものである。