赤木志郎
私の場合、闘いに参加するようになった原点は、軍国主義にたいする強い反発だった。
1947年生まれの団塊世代として戦争体験はない。私が軍国主義について意識するようになったのは、まだ町に残っていた戦争の爪痕や空襲や召集などの話を聞いたからだった。
中学校に通う途中には、空襲で焼け死んだ人々がいまも沈んでいるという運河があったし、鐘紡病院の裏手は爆撃でビルが破壊されたまま放置されていた。親戚が住む三菱重工業の社宅のビルは黒く塗りつぶされたままだった。家の近くにあった川崎車両の工場の壁には機銃掃射の跡がなまなましく残っていた。戦後15年以上にもなるのに、家の周辺は戦禍の爪痕が取り残されたままだった。それらを毎日、見ながら学校に通い、いやがおおでも戦争を考えざるをえなかった。
家には戦争の写真集があった。南京虐殺の数多くの写真や朝鮮人慰安婦の人が掲載されていた。それを見ながら、日本軍がどれほどあくどいことをやったのか思わざるをえなかった。
戦中は母たちが田舎に疎開し、祖父と祖母、父が神戸に残っていたそうだ。祖母から空襲のなか逃げまどった話を聞いたとき、幼ながら戦争を起こした軍国主義者が許せないと思った。空襲は米軍がおこなったものだが、戦争そのものはアジア侵略など日本が始めたものだ。父は中国戦線に行き、病気で対米戦争開始前に帰っていた。母は疎開先で身重にもかかわらず軍事訓練にかり出されたそうだ。どの家族もそうだが、私の家族も戦争と無関係でなかった。
戦争の話は担任の先生からも聞いた。神戸師範学校生徒は海軍に学徒動員され、そこでびんたで虐めるというのは日常のことだったと言う。そのビンタをやっていた人が私の中学校で国語を教えていた。いかにも質の悪い教師で気分が悪かった。
小学校5・6年生のときに、先生から反戦平和の歌を教えてもらい、クラスで毎日のように歌った。「原爆許すまじ」「心の歌」「ともしび」などや各国の民謡もあった。歌をつうじて戦後の反戦平和にたいする人々の願いを自分のものとしていったと思う。
私にとって侵略戦争を起こした軍国主義とは暴力と抑圧、無知と非合理の塊であり、もっとも唾棄し、無くすべきものだった。
その軍国主義にたいする反発が、天皇制に向かうようになった。学校で「天皇はヒットラーと同じだ。ヒットラーは女性を裸にして歩かせ強制収容所に入れたのだ」という話を聞いた。この話はショックだった。私には写真集にあった朝鮮人従軍慰安婦や南京虐殺で女性が下半身をさらけ出して殺されているのが点々と続いている写真と結びついた。そうだ、昭和天皇が軍国主義の象徴だ。小学校の卒業間近「君が代」の練習を2クラスが拒否し、卒業式ではベートベンの「喜びの歌」に代えられた。私は天皇が苔のむすまでなどと唄う気にはとてもなれなかった。
こうした体験から、侵略戦争をおこない、人々を抑圧していった軍国主義が悪く、許せないと思った。その気持ちが、後に軍国主義という古く立ち後れたものを生み出した日本そのものが嫌いになる要因となった。歌謡曲を堕落した歌として馬鹿にし、反戦歌やロシア民謡を好む「政治的な」少年になってしまった。