「議論」

小西隆裕

私たちが、「人々の意識が高まった今は、啓蒙の時代ではない。議論の時代だ」と言い始めてから久しい。だが、現実はそう簡単ではない。いくらSNSの時代だからといって、それが即、議論の花盛りを意味している訳ではないようだ。まだまだ、ネット上でも議論は低調だという。

ということもあって、ならばわれわれがと、書く文章を「議論式」「議論提起式」にと書き始めてからこれも久しい。だが、書く文章、書く文章、なかなか議論式にならない。啓蒙式の臭いぷんぷんだ。

書くだけではない。話す方の議論もうまくできない。どうも議論がかみ合わないと思ったら、互いに自己主張するばかり、話が平行線、別のことを話している。論争するのはよいが、正反合で互いが高まるのは容易でない。

そうした中、今年問われているのは、この「議論」だ。安倍首相は、来年を改憲のための「国民投票」の年に設定しながら、「憲法論議」「防衛論議」を呼びかけ、今年こそ「勝負の年」だと張り切っている。もちろん、彼一人に勝手に力ませておくのも、一つの手かも知れない。しかし、米国の覇権が崩壊するこの激動の時代、日本の進路、国のあり方をめぐって、広範な国民的議論が問われているのも事実ではないかと思う。

そこで、この間、われわれが自らのライフから得た「議論」の要諦について一席。その一、自分の言いたいのをぐっと抑え、まずは、相手の言い分からよく聞く。その二、相手をどう説き伏せるかではなく、相手の考えをどう実現するかともに考え、ともに答えを出すようにする。以上。

「え!それで終わり?」とおっしゃることなかれ。これだけやるのも意外と難しい。私は、人々の間で、これだけでも一つの社会的な習慣になれば、今問われている「議論問題」は基本的に解決するのではないかと妄想している。何事も、「隗より始めよ」、まずは自分から。