幼友だち、「とっちゃん」のことを

若林盛亮

今年も故郷、滋賀草津の同窓の幾人かから年賀メールが届いた。
同窓の多くはゴルフにジム、サイクリングにと健康第一の「老後」を楽しんでいる。なかにはフルマラソン、トライアスロンをやる猛者もおり、古希になっても現役、仕事を続けている友、地域の複数の役員を兼ねている友もいる。しかし人生最後をうまく飾れなかった友、不遇のうちに逝った友の話も聞いた。

その友は、「チンピラみたいなことをやっていて、最後は不動産屋で実家の財産も食いつぶし二〇年前に病死した」とのこと。まだ50歳になるかならぬかで逝ったことになる。私の最初の親友、唯一無二の幼友だちの彼、死ぬときはどんな思いだったかと思うととても胸が痛む。そんな幼友だちへの哀悼の思いをこめ、私の知る「親友の顔」をここに記す。

彼の名前は国松俊明、「とっちゃん」と私は呼んだ。「若ちゃん」とか「若」とかが私の通称だったが、彼はずっと私を「もりあきちゃん」と呼んだ。私も彼をずっと「とっちゃん」と呼んだ。

私の家から数軒隣りの「ご近所」同士、幼稚園に一緒に通った。私は幼稚園がいやで「とっちゃん」が誘いに来ても行くのをいやがったものだが、母にしかられながら出てくるまで私をじっと待ってくれた。「とっちゃん、頼んだで」と母は私の手を彼に握らせ、私は「とっちゃん」に引っ張られて幼稚園に通った。

小学3年くらいからはキャッチボールをよくやった。私がピッチャーで「とっちゃん」がキャッチャーだ。土の上に本塁ベースを描き、私の一球ごとに「ストライク!」「ボール!」と彼は声を上げた。「とっちゃん」のリードで私のボールコントロールはめきめき上達し、町内の草野球チームでは私と彼がバッテリーを組んだ。当時流行ったビー玉合戦で他の町に一緒に遠征した。コントロールのよい私はビー玉の腕もいい。ビー玉をかっさらっていくのだから、いちゃもんも付けられる。そんなとき、「とっちゃん」は常に私のボディガードになってくれた。私は弱く彼の腕っ節がめっぽう強かったからだ。こんなコンビでけっこうビー玉を稼いだ。

「とっちゃん」の家は家電屋、松下電器の特約店でTVが珍しい時代に、土曜日の夜、「日真名氏とびだす」という探偵ドラマを国松電気店に見に行くのが楽しみだった。力道山のプロレス試合があるときは黒山の人だかりになるので、「とっちゃん」は一番前の席を私のためにとって置いてくれた。

高校時代から彼とは疎遠になった。「とっちゃん」は京都の私立高校へ、私は県下の進学校へと道が分かれたからだ。あるとき、彼は「俺、こんなん持ってるんや」とカバンからドス(短刀)を取り出したが別に驚きはしなかった。「とっちゃん」ならやりそうなことだった。

「とっちゃん」最後の友情は1967年晩秋にあった一件。私は水谷、中村両君と京都で「裸のラリーズ」を結成したが、練習場がなかった。彼に相談した記憶はないが「バンドの練習場に使え」と、「とっちゃん」は彼所有の駅前百貨店の倉庫をぽんと貸してくれた。国道沿いの一軒家だったのでいくら大きい音を出しても大丈夫だった。私がまともに練習し、三人で音合わせをやったのはこの倉庫が最初で最後だ。「伝説のバンド」の最初の練習場、それは「とっちゃん」が提供してくれたものだ。

その後、二度と会うことはなかったが、「チンピラのようになって家産を食いつぶし」、50年ほどの生涯を「とっちゃん」は終えた。

幼友だちの私には彼が「ワル」ぶる理由がなんとなくわかる。彼のお母さんは、一人で家電屋を切り盛りしていて子供を見る暇などない様子だった。幼い頃から彼と妹は雑然と散らかり放題の家の中で母親の細やかな世話を受けることなく育った。父親は紡績工場の労働組合の委員長だか幹部で、社会党から市議選に立候補したこともある人物だが、彼の家で父親を見た記憶がほとんどない。中学時代にSMエロ雑誌をこっそり私に見せるなど、すでに「とっちゃん」は荒れる兆候を示していた。そんな荒ぶれていく「とっちゃん」に私は何もできなかった。

「とっちゃん」が私のためにやってくれたことはとても多い。だからせめて私だけが知っている「幼友だちの顔」をこの世に残しておきたいと思った。国松俊明の「もう一つの顔」を記録に残すことで、「とっちゃん」から受けた友情に報いたい。

合掌、「とっちゃん」・・・