階級より民族へ④ 赤軍派参加の決意

赤木志郎

私は1968年6/15、6/28御堂筋デモを最後に、デモ参加を控えていった。アルバイトばかりして大学にも顔を出さなくなった。10/21国際反戦デーのデモでは、市大の西浦さんがアジテーションをしているのを群衆の一人として眺めていた。

その西浦さんから喫茶室に呼び出され、喝を入れられた。あまりの大声で周りの人が驚くほどだったと思う。そのことが学生運動に再び参加する契機となり、今でも感謝している。

その頃、東大闘争が次第に激化していた。報道を見ていて封鎖している東大安田講堂が陥落するのではないかと思った。翌年1月、私は東大に向かった。そして逮捕された。

この時、封鎖解体から守るためには当然、断固闘うべきだった。しかし、私は安田講堂の中にいても戦意がなかった。佐世保橋の上でよぎった疑問の答えを見つけていなかったからだ。そして、東京拘置所に送られてから、私は黙秘を守らなかった。

拘置所中で、革命闘争に賭けるかどうか、どう生きるのか、悩み続けた。それ以上に、それまで階級闘争学説を学んだのにそれを裏切った自分を許せなかった。慚愧の炎で自身が焼き尽くされる思いだった。

このとき、東京にいた大阪市大の先輩張間氏が毎週、面会にきてくれた。張間氏は退学処分になって東京で会社勤務をしていた、私には一種の伝説の人だった。面会で話をするわけではないが、会うだけで心がなごんだ。

6ヶ月くらい経って、私はついに革命闘争に賭けることを決心した。結局、正義のために闘うのが人間としての生きる道であり、私を支えてくれた人々の恩義に応える道だと。また、その道に進むことが私の過ちを雪ぐことになると考えた。その決意の手紙をその張間氏に送った。

夏頃、赤軍派が生まれたことを知った。ゲバ棒だけでは機動隊を突破できず、大学からデモ隊が出ていけない状況だった。各党派の機関紙にある「殲滅」など空語でしかなかった。だから、武器をもてという赤軍派の主張に共鳴し、赤軍パンフを懸命に学習した。武器をもつことは、すなわち自分も殺されるという覚悟をしなければならなかった。これまであれこれと動揺したが、命を賭ける覚悟を固めることで私の行く道が定まった。

保釈後、一ヶ月経って、手配中の田宮氏と会って赤軍派の参加を約束し、翌日、東京に向かった。ジャンパーを羽織り、兄が買ってくれたジーパンを穿き、父が買った作業靴を履いていた。ビニールバッグにはマルクスの本と赤軍パンフ、下着を入れていた。降り立った東京の街ではクリスマス・イヴのジングルベルが鳴り響いていた。

東京で活動中に高校生活動家に呼ばれ、「同級生が銀行に就職する。こういう普通の人が闘いに立ち上がるようになるにはどうすればいいのか?」という質問を受けた。私が「自分たちは武装蜂起する。それを見て自分で考えれば良い問題だ」と答え、高校生たちは呆気にとれていた。

その時、私の最大の関心事は自分の生き方の問題、闘争に賭けるのか、放棄するのか、その決心だった。私は、自身の生き方として闘争の道を選んだが、「誰のために何のために闘うのか」ということを自身に問いかけていなかった。だから、私は普通の人々が何を考えどう生きているのか関心がなかったのだと思う。私は革命闘争に命を賭けると決心したが、頭の中にあるのは一般的な「人民」のためであり、現実の前にいる庶民が眼中になかった。

佐世保橋の上でよぎった「自分は何をしているんだろう」という問いが、その後、実際に命を賭けるハイジャック闘争の中でさらに迫られるようになった。