階級より民族へ⑥民族意識の芽生え

赤木志郎

国内にいたとき在日朝鮮人との付き合いがあったが、今度は、自分が在朝日本人として朝鮮で暮らすことになり、それまで知らなかった朝鮮の文化、歴史、政治に真正面から向き合うようになった。

ある程度のカルチュアーショックを予想していたが、むしろ日本と多くの共通点があることに驚いた。米味噌の食文化、四季の気候、自然風景、それに人の外貌も変わらない。

日本とまったく異なるのは、社会主義制度であり「革命」のスローガンが溢れていることだった。そこで見たのは、抗日民族解放闘争であり、反米祖国防衛戦争であり、大国の干渉を排斥した社会主義建設だった。とくに、社会主義と徹底した反帝の立場に共鳴した。そして、強烈な民族自主の精神で貫かれた人々の闘いというものにはじめて触れた。

しかし、私は民族解放闘争もブルジョアジーと労働者階級の階級闘争の一部だという考えだった。資本主義国が帝国主義となり、植民地を支配し、そこから反帝民族解放闘争が起こるのは必然だ、民族解放闘争は植民地国における階級闘争だと。日本の場合は民族的抑圧を受けていないので、いわゆる民族問題はなかったと思っていた。(正確に言えば、アイヌ民族、沖縄県民にたいする民族差別問題はあるが、日本民族自体の民族問題はないと考えていた)。だから、階級闘争と民族解放闘争の関連、ひいては階級と民族との関連について考えることがなかった。

抗日武装闘争の映画を見て、遊撃隊が日本兵をやっつける場面に心を躍らせ、拍手喝采を送っていた。遊撃隊や地下組織を制圧するのに血眼になっている日本人悪玉は、私たちを弾圧した警察、政府そのものだった。階級的には、被抑圧階級と抑圧階級、被支配階級と支配階級との闘いであり、日本における闘いと朝鮮の闘いは同じだと考えていたのだった。

しかし、私の民族解放闘争にたいする理解は表面的だった。朝鮮人民が日本やアメリカ帝国主義の侵略に反対するのはなによりも民族の自主を守り国家主権を擁護するためだ。社会主義の道を選んだのも、資本主義的発展にすすむより民族の発展の道を社会主義に見いだしたからだ。国と民族の運命を第一に考え、それを拓くために全民族的闘争を繰り広げてきたということを見落としていた。「階級闘争史観」の眼鏡で見ていたので、正しく見ることができなかったのだ。

朝鮮に来てから2年目、映画「血の海」を見た。満州、間島地方における日本軍の暴虐のなか女性が革命に起ちあがる話だ。私たちが観たいといってはじめて実現した。この映画を見て日本人である私たちが気分を害さないかと、朝鮮の人が気を揉んでいるのが分かった。老若男女、皆殺しにしていく日本侵略軍の残虐ぶりを生々しく描いていた。にもかかわらず、私は日本兵の残虐さは、今の支配階級そのものだと思い、そこになにか民族的違和感をもつことがなかった。

私は、同じ日本人がいかに悪どいか、そこに日本人としての民族的恥ずかしさ、痛みを感じることがなかった。私の父は徴兵で中国戦線に行った。どこで何をしたかを聞いていないが、中国人をチャンコロと呼び朝鮮人をチョーセンと言うのを聞いて、私は激怒したことがあった。朝鮮人の友人が家に来ることになっていたからだ。

今から考えると、そういうアジア諸国の人々にたいする侮蔑意識をもっていれば中国でろくでもないことしたのは間違いない。日本兵の蛮行は、人ごとではないのだ。空襲などで自分の家族が軍国主義の被害者とばかり考えてきたが、加担者でもあるのだ。日本人がアジアで行ったことを他人事と考えていたのが間違いだった。

私が民族性が少ないのは、日本そのものが良い国、良い民族だと感じていなかったこともある。進歩的な思想文化はすべて外から入って来、日本固有のものは古い思想文化だったという考え、軍国主義・日本型集団主義にたいする毛嫌いと個人の自由という欧米文化への親しみから、日本歴史と文化をはじめ日本的なものに反発していた。ちょっと特殊だと思うが、子供の頃から歌謡曲も嫌いで反戦歌、ロシア民謡を歌っていた。だから、「愛国」という文字を見ても眼から火がでるくらい憎悪にたぎった。「愛国」は軍国主義の代名詞だと思っていたのだ。

しかし、日本である自身から民族性を消し去ることはできない。年を経るにしたがって、日本という国と民族を考えるようになった。生活上のちょっとした考え方や作業を細かくつめる性格など、日本人の血が流れているのだとおもわざるをえなかった。愛郷やいろいろな場面の人情を唄った演歌や日本的なものに眼が向き、自身に日本を感じるようになっていった。建築や絵画も左右対称の中国画、朝鮮画より微妙な均衡をとっている日本の建築や絵画が良い。朝鮮のことを知れば知るほどその民族精神に感心するとともに、私の感情は日本に向かっていった。若い頃から日本好きの人は多いと思うが、私の場合、大きく遠回りして日本を感じるようになった。

それでも、日本は近くて遠い国だった。日本の情報はラジオの海外放送と数週間から1ヶ月遅れの新聞、朝鮮で会う日本人もごくまれだった。南の方角に空を仰いで日本を思い浮かぶしかなかった。

それが変わったのは、90年代に入ってからだ。電話も直通でできFAXも使え、なによりも訪朝者が一挙に増えた。それからしばらくしてBS衛星放送を見ることもできるようになった。本も多く入手した。一挙に、日本が近くなった。

しかし、考え方は依然として階級闘争史観が強く残っていた。民族についてそれほど考えなかった。このようにして20年近く過ぎ去った。