「売られせない日本」にするために

魚本公博

この間、同じ問題意識をもっている者として、堤未果さんの著書「日本が売られる」を援用しながら問題提起してきた。「日本が売られる」ということは、日本の為政者が「売ろうとしている」のだということ。したがって彼らの「売る」口実はすべてウソであり疑ってかかるべきだということなどを。そして「次回は日本を売らせないためにどうすればよいのかを堤さんの考え方などを参考にして考えたい」と述べた。今回は、それを述べる。

先ず根本的には、「日本を売ろうとしている」のが日本の為政者なのだから、「日本を売らせない」ためには、「日本を売らない」政権への交代が重要な手段の一つとなる。

来年は、統一地方選、参院選があり、この中で、政権交代を実現する地歩を固めなければならないのであり、これは緊急かつ重大な問題である。そのためには、「日本を売らせない」という声を国民的にどうすれば高め広げていくかを考えることが肝要であることは言うまでもない。

堤さんは、「あとがき」で「売らせない日本」と題して、自身の考えを述べているが、この「売らせない日本」という表現自体に堤さんの考えが込められていると思う。普通なら「日本を売らせない」となる筈なのに、何故「売らせない日本」なのか。それは日本及び日本国民が一体になって「売らせない日本」にならなければならないということだろう。

私も「日本を売らせない」政権実現のためには、国民が一体になって「日本を売らせない」という声をあげなければならないと思う。しかし、それは決して容易ではない。極端に言えば、「売られて何が悪いの」ということだってありうる。「売られるとか何とか言ったって、それで暮らしがよくなれば、それでいいじゃないの」と。

国民にとって先ず大事なのは自身の暮らしであり生命である。堤さんは、そうした生活者の声を欧米で取材しながら、「売られてしまった」欧米で起きている「取り返す」運動の中で、「ある大事なこと」に注目し問題提起している。

それは、国民、市民自体が、この問題の当事者であり、責任者なのだということだ。「公共サービスを民間に売り渡すことは、結局高くついただけじゃなかった。一番の損失は私たち一人一人が自分の頭でどういう社会にしたいのかを考えて、そのプロセスに参加するチャンスを失うことの方でした」「与えるサービスに文句だけ言う『消費者』に成り下がって、自分たちの住む社会に責任を持って関わるべき『市民』であることを忘れてしまっていたのです」(スペインの一女性の声)

これ自体はそれほど目新しいものではないかもしれない。日本で言われる「地域住民主権」や「草の根民主主義」の考え方と共通するからだ。しかし、「売られてしまった」ものを「取り戻す」体験を通じての生活者としての声は重い。それは日本での、水問題、漁業権問題などに直面する地域住民の声に重なり、さらには医療や教育の分野など全ての分野で「売られ」ようとしている地域の声と重なると思う。

我々は我々自身の生活の当事者であり、責任をもつ、政治の主体なのだ。この声が大きくなったとき、「日本を売らせない」政権への交代が可能になる。