「岐路の1919年」、何を見るべきなのか

魚本公博

1919年に起きた朝鮮の「3・1独立運動」や中国の「5・4運動」と関連して朝日新聞(2月28日)に「岐路の1919年 日本 読み間違った新潮流」という記事があった。

1919年1月、パリのベルサイユ宮殿で第一次世界大戦の戦後処理が討議されたが、この会議では「民族自決」と「不戦条約」という新しい考え方(新潮流)が出された。しかし、日本は、それを読み間違え、軍国主義的な考えを捨てることなく、第二次世界大戦に突入し敗北したというもの。

ここで考えなければならないと思うのは、ベルサイユ条約の時期に出された「民族自決」や「不戦条約」の考え方がどういうものであったかということ。

先ず「民族自決」だが、この会議で扱われたのは東ヨーロッパに限られており(会議では、オーストリア・ハンガリー帝国の解体と、それに伴うチェコ、ポーランドの独立などが決められた)、それを主唱したのは米国であり、米国としては列強との覇権競争を有利に進めようという狙いがあったということ。だから、米国はアジアでは「民族自決」を掲げながらも「門戸開放・機会均等」を主張し、中国の領土分割競争で自分にも機会を与えよと要求している。

「不戦条約」は、それまで戦争をやるかどうかは国家の主権問題であり、各国が勝手に戦争することも認められていたものを一定の枠に押し込もうとしたものでしかなかった(国際連盟の考え方)。

すなわちベルサイユ条約で出された「不戦条約」や「民族自決」とは、列強の覇権競争を調整する帝国主義列強の論理でしかなかった。それ故、会議では山東半島を分割占拠していたドイツの権益を日本が継承することも認めたのだ。

従って、朝日新聞がベルサイユ会議で提起された「不戦条約」や「民族自決」をもって、日本がこの流れ(新潮流)を見間違えたとするのは、誤解を招くし正しくない。

その背景にはアジアで強まった民族独立・自主の動きがあった。しかし、列強はその声に耳を傾けるのではなく、それを利用したのだ。これを明確に区別し、アジア諸国で起きた民族独立・自主の動きこそ本質的なものとして捉えること。それをあいまいにして、ベルサイユ会議での「不戦条約」や「民族自決」をもって、「新潮流」などと見るのは、時代の流れを再び読み間違うことになりかねない。

日本では大正デモクラシーの中、この年の3月1日に、普通選挙実施要求の大デモが行われている。しかし、この運動は日本の帝国主義・軍国主義的あり方を批判するものにはならなかった。こうした中、アジアの声に耳を傾け日本の軍国主義的生き方に警鐘を鳴らした数少ない人物として柳宗悦がいる。彼は言う「軍国主義を早く放棄しよう。・・・自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若しも、此の人倫を踏みつけるなら、世界は日本の敵となろう。そうなるなら滅びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか」(朝日新聞の記事から)。

結果は柳の言った通りになった。ならば、他人を尊重しなかった故に滅んだということ、それを教訓とすることが今、問われているのではないかと思う。

欧米崇拝・アジア蔑視。「岐路の1919年」という記事は、そのことを脱し切れていないように見える。それでは再び読み間違いかねない。誰のためでもない日本のために、アジアを尊重し真摯に向き合うこと、それが大事なのだと思う。