「新しい政治」を見る物差し

小西隆裕

この間、世界の政治が大きく変わってきている。

それについてよく言われるのが、「ポピュリズム」「排外主義」「保護主義」、等々だ。

これまでの「二大政党制」「グローバリズム」「新自由主義」などにはなかった動きだ。

既存の政党、政治家、そして政治のあり方そのものを否定するこうした動きを「新しい政治」と呼ぶことができるのではないか。

この「新しい政治」を指して、この間、「左右のポピュリズム」なる言葉が出てきている。

さしずめ、米国で言えば、トランプは、「右のポピュリズム」、AOC(オカシオ・コルテス)などプログレッシブは、「左のポピュリズム」だと言うことだ。

ここで気になるのが二つある。一つは、「ポピュリズム」、もう一つは「左右」という言葉だ。

従来、「ポピュリズム」とは「大衆迎合主義」、「左右」とは「左翼と右翼」「革新と保守」「リベラルとタカ派」といった意味だった。

しかし、「新しい政治」では、それは合わないのではないか。

確かに、トランプには、自分の政治目的のために大衆に合わせ大衆の気に入るように政治をする大衆迎合的なところが少なからずあるが、大衆の要求に従って動かざるを得なくなっている側面があるのも事実だ。まして、プログレッシブの場合、大衆の要求に応え、大衆に押し立てられているという側面が濃厚だ。

「左右」にしてもそうだ。彼らが何か特定のイデオロギーで動いているようには見えない。

彼らの違いを言えば、イデオロギーの違いと言うより、何をアイデンティティにしているか、どこに自分の米国を見いだしているかの違いに見える。早い話、トランプにとってそれは、「白人の米国」だろうし、コルテスにとっては、「移民の国・米国、あるいは世界国家・米国、世界の中の米国」ではないかと思う。

「新しい政治」を見るとき、従来の物差しを使うのは、禁物ではないだろうか。