アジアの内の日本 2020年2月号

-「アジアの内の日本」をめざすために-「価値観の共有」押しつけか、「価値観の多様性」尊重か

若林盛亮 2020年2月20日

いま「アジアの内の日本」を私たちは主張するが、「アジアの一員になろう」と言ってもたぶん多くの日本人にはあまり響かないと思う。

安倍首相は先の施政方針演説で、「韓国は元来、価値観を共有する国だった」はずだと語り、この昔に戻るなら友好国として認めるという趣旨の発言をした。その裏には今の韓国は「価値観を共有できない」異質の国になった、だから友好国ではなくなった、「悪友」になったという毒が含まれている。

立憲民主党などリベラル野党にしても、徴用工問題を巡る「見直し」議論では「すでに国家間の条約(日韓条約)で解決済み」、「国際法」的には解決済みなので非は韓国にある、韓国の主張には違和感があるという立場だ。ましてや多くの国民が「何回、謝罪すればよいのか」となんとなくうんざり感を持つ、「何度、謝罪しても“歴史認識=反日”の変わらない韓国」というアジアには違和感を持つというのが正直なところだろう。

そんな中でアジアは米中間の覇権抗争の時代だから道は二つに一つ、米国の側につくのか中国の側につくのか? とつめよられれば香港問題など“国家優先の人権抑圧”の国に見える「異質な中国」より“自由と民主主義”など「価値観の似た米国」と一緒の方が安心できる、というのが戦後民主主義に慣れ親しんできた多くの国民感情なのではないだろうか。

この現在の国民感情に対して「過去の歴史の反省がない、謝罪感情がない」と正論で批判するだけでは容易に納得されないだろう。

結論的に言えば、いま「価値観共有」を基準にすれば、日韓問題の解決も、アジアの一員になること、「アジアの内の日本」になることはまず不可能だ。

「アジアの一員になる」という考え方は、アジア諸国と同じ価値観を持つと言うことではない。「価値観の共有」を基準にするのではなく、むしろその逆、「価値観の異なること」を前提に「価値観の多様性」尊重に基準を置く考え方をすることだと思う。こうしてこそまず相手を認めることが可能になるはずだ。

「価値観の共有」を以て、良友と悪友を分けるのは、かつて帝国主義の時代に自分の「価値観共有」=「同化」を押しつけた覇権主義の名残だと言える。

かつてわが国は「大日本帝国」として日本の植民地、支配地域では「皇国臣民化」という日本の文化、価値観共有、天皇制への「同化」を強要した。いま米国が「市場経済と法の支配、自由と民主主義」という価値観共有を基準に中国やロシアを「修正主義国家(米中心の国際秩序変更を狙う国家)」と敵視し、日本を「同盟国」としている。しかしながらこの考え方は、自分の「価値観共有」を押しつけ従わせるという意味で、「大日本帝国」の「皇国臣民化」という「価値観共有=日本への同化」押しつけと何ら変わるところはない。

いま米国の言う「価値観共有」押しつけに同調することは、かつてわが国が犯した覇権主義的対応の過ちを繰り返すことではないだろうか。覇権とは自分の覇の確立であり、相手に屈従を要求する、側面を変えれば覇権国家への「同化」を強要するものだからだ。

元来、世界の諸民族、国家はそれぞれの歴史的経緯が異なり、宗教や社会制度を異にする、言い換えれば多様な価値観の国々で成り立っている。この「価値観の多様性」尊重こそ国家間関係の基礎になるべきはずだ。ましてやアジアは仏教、キリスト教、イスラム教など宗教も異なり、資本主義、社会主義など社会制度も異にする国々の集まりだ。

最近、米国が「価値観の異なる」中国に対抗するとした軍事同盟「インド太平洋地域構想」を東南アジア諸国に強要したが、これに対置する形で「対抗ではなく対話と協力の地域構想」提起という東南アジアからの拒否にあった。ここから言えるのは、「価値観共有」押しつけという「アジアの外」から「同化」を強要する覇権主義をアジアは拒否したということだ。

「価値観共有」押しつけではなく、「多様な価値観」を尊重すること、これが価値観が各国それぞれ相異なるアジアの一員になる道、「アジアの内の日本」になるものの考え方ではないかと思う。

アメリカが日本のリーダーか

赤木志郎 2020年2月20日

手嶋氏(元NHKワシントン特派員)がニュース番組に出席して、最後の一言を「アメリカが日本のリーダー」と書き示した。アメリカが世界のリーダーとしての権威を失っていくなかで、改めてあくまでアメリカに従っていくべきであることを強調した言葉だった。

現在、中国が台頭していく一方、アメリカの軍事力、支配力が落ちていっている。東アジアでは中国軍が圧倒する。在日米軍基地もミサイル射程圏に入っているという。だから、小谷哲男明海大准教授は「米軍と自衛隊の共同対処も必要」だと述べている(読売新聞)。多くの親米派学者・評論家は声を揃えて、日本の自衛隊が米軍と一体となって支えるべきと主張する。日米安保強化論の主な根拠だ。

自衛隊が中国軍との戦闘で米軍を支え矛となり戦う態勢を整えるべきというのは、アメリカの要求であって、日本の国益、日本国民の要求から出発して言っているのだろうか。

小谷氏が言うように在日米軍基地が中国のミサイルの射程圏に入っており、その壊滅が予想されるというなら、日本全土が戦場になるということだ。日本を戦場にする危険を犯してまで、日米安保を強化するとはなんのためなのか。

米中対決の中でどちらにつくのか、中国とは無理だ、だからアメリカについて運命を共にすべきという主張は、大国についてどちらか一方と対抗していくという覇権の考え方だ。覇権国の下で生きるというのは、各国が自己の国益にもとづき生きていく今日の脱覇権の時代にあって合わない。

日本の国益、日本国民の安全と利益から出発すれば、特定の国と対抗し、対抗のための同盟を組むとかせずに、どの国とも友好関係を維持、発展させることが日本の平和と国民の安全のためになる。対抗ではなく、対話だ。

アメリカ側につかず、かといって中国側にもつかないで、どちらとも友好関係を維持しつつ、アジアの平和と安全をはかろうとしている国々がある。ASEAN諸国だ。ASEAN諸国はアジアを対決の場でなく対話の場にするとしている。

それゆえ、日本はアメリカをリーダーとするのではなく、自国の国益を守るために考え、ASEAN諸国とともに米中のどちらにもつかず友好関係を維持していく道を選択してこそ、東アジアの平和と日本の安全を守っていくことができると思う。

何が腑に落ちないのか?

若林佐喜子 2020年2月20日

1/25付け朝日新聞の耕論で「『上級国民』がネット発で流行語となった。現実には、『上下』に厳然と分けられているじゃないか―。そんな思いが渦巻いているのか。」と問題提起。

回答者の一人である吉川徹氏(社会学者)は、日本の社会は上下層が存在し、「転落しない特権層」への疑念、怒りの表現だと答える。さらに、氏は、「『上級国民』と『アンダークラス』の分断が始まった」と主張している。(中央公論2019年9月号)

氏の主張は概ね次のような内容だ。

「経済の停滞で社会的地位の上昇が難しくなり、大卒の親の子は大卒に、非大卒の親の子は非大卒になると言った世代間の学歴再生産の傾向が強くなる。」「非大卒層は、『アンダークラス』にも重なるが、彼らは、高級官僚や政治家、経営者など『上級国民』が社会を動かし、その子の世代も同様なエリートへの道を歩む、という現在の社会構造を知っています。」

「橋本健二(社会学者)氏によれば、非正規労働者のうち、独身者やひとり親世帯などの、世帯の基盤の脆弱な人たちが今、資本主義の生産関係の枠外にまでに凋落し、『アンダークラス』と呼ぶべき状態にあるという。その数は900万人以上だとされる。」「日本の現役世代(20歳から59歳)のうち、非大卒層(その大半は高卒学歴)は約56%。試算してみると、橋本氏の「アンダークラス」の3分の2が筆者のいう非大卒層なので、ほぼ同じものを見ていることになる」と。

吉川氏は、「階層の調査計量研究は、日本社会においてこうした再生産構造が変わらず続いていることを何度も「再発見」してきた」と、自己の主張の正当性を強調する。

何が腑に落ちないのか?

氏の指摘する傾向があるのは事実だ。しかし、反する現象があるのも現実だ。

大卒の親の子は大卒、そしてエリートコース(=上級国民)に。果たしてそうだろうか?

昨年6月の元農林水産省事務次官の引きこもり長男(44)刺殺事件。亡くなった長男が言っていた言葉は、「自分の人生、何だったのだ」。中学でいじめにあい、大学を出て就職するが続かず、引きこもりに。また、最近、起きている事件の当事者の学歴を見れば大学卒が少なくない。

特に近年、社会問題として取り上げられているロスジェネ世代の状況だ。

93年から2004年に大学を卒業後、就職活動をしたが、希望する職に就けないなど不安定な仕事をしている人らは、30代半ばから40代半ばを中心に約100万人。(朝日)

就職氷河期世代、約1700万人。非正規雇用317万人。フリーター52万人。職探しをしていない人(ひきこもり)40万人。(読売1?6)

このように、現在の日本社会、特に、ロスジェネ世代の置かれた状況からは、「格差と貧困、居場所の喪失」が見えてくる。

求められているのは、「上級国民」と「アンダークラス」の分断、対立ではない。

問題は、その原因を確認して、それを解決していくことだ。新自由主義、グローバル経済を選択してきた、政治の変革と社会構造の改革が求められているのではないだろうか?

日本にとってアジアとは

小西隆裕 2020年2月5日

日本にとってアジアとは何か。

普通一般、浮かんでくるのは、歴史的、地理的、そして人種的にももっとも近く、しかし、立ち後れた国々、地域といったイメージだろうか。

しかし、それが存外親しくない。

実際、われわれ日本人がアジアをどれだけ知っているかと言えば、結構何も知らない。

むしろ欧米よりも知らないし、また、親近感もないのではないか。

それには、近代以降の「脱亜入欧」が大きく影響していると思う。

欧米覇権に抗し、アジアとともに闘うか否かが問われた時、

時の明治政府は、「否」を選択した。

その根拠にされたのが「アジア悪友論」だ。

それが近代から現代、日本のあり方自体を決定したと言えるのではないか。

今日、アジアの時代、そのことが問題になってきている。

もちろん、アジアの時代と言っても単純ではない。

今や米覇権を上回る勢いを見せる中国による覇権、

この米中覇権の抗争の中、そのどちらにも組みせず、自主独立、独自の発展を追求する東南アジアや南北朝鮮の動き、

そして、米覇権を後ろ盾とした勢力との闘いで優位を確実にしてきているシリア、イランなど西アジアの自主独立勢力、

経済成長だけでなく、アジアの台頭は著しい。

このアジアの時代にあって、日本のあり方は、150年の時を経て、再びアジアとの関係で問われてきていると思う。

第二次大戦、アジア侵略戦争の泥沼と惨敗により、その誤りが露呈された「アジア悪友論」を根底から総括する時が今こそ来ているのではないだろうか。

日本にとってアジアとは、欧米に与し欧米の下で覇権する対象でも、その「盟主」「リーダー」となって君臨・覇権する対象でもない。逆に、覇権に抗し、反覇権、脱覇権のためにともに闘う共同体になることが求められているのではないか。

150年前、維新政府のもう一つの潮流だった西郷隆盛たちが目指して成らなかった闘いを成就するため、今掲げられるべきスローガン、

それは、「米国でも、中国でもない、アジアの内の日本」ではないだろうか。

カジノ見本市だって!

魚本公博 2020年2月5日

1月29日、横浜市の「パシフィコ横浜」で、カジノ見本市なるものが開かれた。参加したのは米国・ラスベガスから2社。香港、マレーシア(営業はシンガポール)、国内など6つのリゾート会社から社長や最高幹部が出席。

この見本市、カジノと銘打っているのに、展示内容にカジノの要素は一切なし。主催者側参加者の挨拶でも「IR(統合型リゾート)が単なるカジノという誤解を払拭していただく場」「市民の方にIRの素晴らしさを理解していただきたい」「市民がカジノに入らなくてもエンターテインメントで楽しめる健全な施設」「これからの成長分野は観光MICE(ビジネス・イベント)で、その目玉としてIR導入が必要」などと、「カジノではありません、市民が楽しめるIRなのです」という「カジノ隠し」のオンパレード。

カジノはトランプのお友達のラスベガス・サンなど米国企業に任せるのは決定済み。だから、「IRはカジノではありません」と説く今回の見本市での「カジノ隠し」は「米国隠し」でもある。

ラスベガスなんて砂漠のど真ん中に作ったカジノのための人口都市。おとぎ話しに出てくるようなお城もどきの施設、悪趣味のネオンサインの不夜城。そこは一日で数百億円をすったというような話は日常茶飯事の世界。そして身を持ち崩し徘徊する人々の群れ・・・。

「人間なんて、そんなもの」というラスベガス・サンなどカジノ経営者の高笑いが聞こえてきそう。どうしてこんなものを日本に入れなくちゃならないのか。

この見本市に、市民団体が「横浜を賭博場にするな」「カジノの是非は市民が決める」「自分たちの町のことは自分たちが決める」と抗議の声を上げたのは至極真っ当なこと。

地域の衰退を作り出し放置しておきながら、地域振興を掲げてのカジノ誘致。それも姑息な「カジノ隠し」「米国隠し」のIRで。それを要求する米国も、受け入れる日本の政治も、まともな人間の考えることではない。

これも、「古い政治」の帰結の一つ。そうであれば、真っ当な市民の真っ当な人間感覚で、「自分たちの町のことは自分たちで決める」という真っ当なことこそ、「古い政治」に代わる「新しい政治」の本質なのかも知れない。いや、そうだと思う。

教育は国のあり方にある

森順子 2020年2月5日

今年の大学入試試験問題は、多くの議論をかもしだした。

「入試が変われば教育が変わるという発想を変えよ」「未来に資する人材を選抜するふさわしい方法か、検討が必要」「課題が山積する教育現場を変えるには、国家百年の計を意識し、相当の覚悟と準備が必要であることは間違いない」「日本の教育を建て直せ」など、教育改革に異議を唱え、おもに教育の本質や入試のあり方そのものを問う論議だった。

このような議論から思うことは、日本の教育を考えることは、これからの日本を考えること。どんな日本をつくりたいのか。どんな日本人を育てたいのか考えること。日本の将来を決めるこうした教育議論はもっともっとなされる必要があると痛感しました。

その上で、結局、教育問題の行き着くところは、国のあり方を巡る問題だと思います。

それは、教育が国のあり方によって変化し、決まり、国のあり方に基づいて教育はなされているからです。

「社会が変わるのだから教育も変わらなければならない」。この理屈に則り教育改革は急務として提起されたのですが。そこで問われたことは、日本の教育のため、日本の子どもたちのための教育改革なのか、ということです。論議からもたらされた答えは、「ノー」でした。それは、社会の変化にともなって、どんな日本をつくっていくのか、どういう日本のもとにどういう教育をしていくのか、という日本独自のビジョンみたいなのがないからだと思います。だから、日本が教育最貧困国と言われるひとつの理由も日本の教育現場からは日本の将来が見えてこないということになるのだと思います。

誰もが良い教育をうけ、それが社会のために役立ち、それぞれが幸せを感じられる国を望み、令和の新しい時代の日本に、そういう明るい未来を皆が託していると感じます。そうであるなら、子どもたちや次世代の10年後、30年後の未来を見据えたとき、今よりもっとよい教育を与えられる社会、それはどういう社会なのか、どういう形の国と社会にしたらいいのか、皆、自らが考えていくべき大切な問題ではないかと思います。