アジアの内の日本 2020年6月号

「withoutコロナ」の東北アジアから「withコロナ」の日本を考える

若林盛亮 2020年6月20日

日本ではすでに「コロナとの共存の時代」を前提にことは進んでいる。そのキャッチフレーズは小池東京都知事の造語「withコロナ」。

「withoutコロナ」をめざしている東北アジアの一角に在住する私たちから見るとこれはとてもおかしい。

朝鮮は言うまでもなく、韓国や中国、台湾では「感染ゼロをめざす」、すなわち「withoutコロナ」を初動から最優先に取り組み、いま感染者が散発的に出るものの「コロナ封じ込め」に着々と成果を収めている。これは世界も認めることだ。

日本は欧米と比べて感染者数、死者数が奇跡的に低いと言われるが、しかしアジア諸国と比較すればとても誇れる数字ではない。そんなわが国が早々と「withコロナ」、「コロナと共存の時代」を国民に訴えているのには違和感を覚える。

日本政府は発熱を訴える人にさえPCR検査を渋り感染者を正確に把握することを嫌っている。無症状感染者となると全く把握できない放置状態だろう。感染者の80%は無症状という新型コロナ・ウィルスの特徴からすれば、すでに周囲には国が把握していない感染者がうようよいると想定される。これは感染が即重症化、死を意味する高齢者や糖尿病、心臓疾患など持病を持つ人には生命の危険に日々、さらされているということだ。

事実、いま日本では老人はできる限り家に閉じこもって外出を控えているそうだが、家庭には老人だけがいるわけではない。外出から帰宅する壮年、若年家族の誰が感染しているかわからない中では家庭も安全地帯とは言えない。そんな中で「withコロナ」を呼びかけることは、「不安、恐怖との共存」の覚悟を迫るに等しい。それは人間にとても冷たいと思う。年寄り、持病持ちは死んでもかまわない、生産性のない人間には価値がないと言われているようだ。

「感染者ゼロ」という安全地帯、朝鮮にいる私たちでさえ、検温、手の消毒後に入店した百貨店でエスカレーターの手すりに触れることはためらわれる。新型コロナに対する高齢者の不安とはそんなものだ。

新型コロナの脅威は人間の生命と安全への脅威だ。ならばコロナ対策は「国民の生命と安全を守る」が最優先されるべきだ。

無策の政府に比べ素早い対応の「大阪モデル」で国民的人気が煽られている維新の吉村大阪府知事だが、緊急事態宣言解除を受けて彼は「感染ゼロ、封じ込めなどは無理」だからコロナ対策と並行して経済再開を早める方針を打ち出した。これは「withoutコロナ」など無理ということだが、近隣の東北アジアでできることがどうして「先進国」を自称する日本に「無理だ」と言えるのか?

東北アジアではコロナで死ぬことがないよう「封じ込め」を最優先に取り組み、その影響を受ける経済でも人が死ぬことのないように人々の暮らしと経営、経済の安全を守る「補償」に国が責任を持つということをやっている。「withoutコロナ」とはそこまで国、政府が覚悟を持ってやりきるということだ。そんな国、政府を国民が支持しないわけがない。韓国の文在寅政権の党がコロナ禍渦中の総選挙で歴史的と言われる圧勝を収めたのはその象徴だと思う。

人の命を守る意志がなく人間に冷たい「withコロナ」政治に未来はない。どうしたら「withoutコロナ」政治の実現がかなうのか、それがいま「東北アジアの内の日本」を考える私たちの最大の関心事だ。

欧米志向からの転換を

赤木志郎 2020年6月20日

日本が比較的に感染者、死者が少ないと言われている。それは欧米に比べてだ。東アジア諸国に目を向ければ、3月30日時点で日本の致死率は約3・0%、韓国は21日のNHK報道では1・4%。人口100万人あたりの死亡数を見てみると、日本6人、韓国5人、シンガポール4人、ベトナム0人、欧米よりははるかに少ないがアジア諸国の中では多い。

東アジア諸国の中国、韓国、朝鮮、台湾、ベトナム、フィリピン、いずれも死者が少ない。朝鮮、ベトナムはゼロだ。台湾は5人、中国も人口比では少ない方だ。そして、これらの国では経済活動、社会活動を開始している。もちろん、今でも感染者が出ている。感染者がほとんどないなかで出てくるという違いがある。つまり制御できている。日本の場合は、目に見えない無症状感染者が多くいるなかで経済活動を再開していき、いつ感染拡大が増えるか分からないという綱渡り式だ。

安倍政権はアメリカなどに目を向けているが、東アジア諸国の経験を学ぶことの方がよほど意味あることでないだろうか。

韓国のドライブスルー、ウオークスルーなどの検査方法、「発熱外来」を設置し病院以外で検査し対応する方法(福井県でおこなわれている)、若者の検査を多くして感染拡散を防いでいること、検査キットの開発、生活必需品の備蓄、そして司令塔など、学ぶべきことが多い。

死者ゼロのベトナムでも、武漢出身の中国人の感染者が出たことで中国人の隔離、ベトナム人関連者の隔離を徹底的におこなったことで拡大を抑えた。それらの措置は、サーズの経験を生かしているからだという。

死者5人の台湾も、対応が早かった。司令塔の役割がひときわ目立っている。

中国、韓国、ベトナム、台湾に共通しているのがもうひとつある。諸外国にたいする協力、支援だ。マスクや検査キット、さらには医務隊派遣がある。それを政治的利用という批判もあるが、しないよりする方がよほど良い。受け入れ国は皆、歓迎している。

これらの国の模範に比べると、安倍政権のひどさがいっそう浮き出される。日本が欧米志向ではなく、アジア志向に転換していくべきだということをコロナ対策の経験は示していると思う。

「コロナ」、一人の犠牲もなく

小西隆裕 2020年6月5日

世界を見た時、「コロナ」感染者、死者の増加に歯止めが掛かっていない。

そうした中、日本では緊急事態宣言が全面解除となり、感染の収束と経済の再開が並行して推し進められるようになった。

この「並行」による「コロナ」出口戦略で問題なのは、感染拡大の第二波、第三波・・・が必至で、それにともなう犠牲が前提にされていることだ。

実際、「解除」後一週間、北九州市や東京など、第二波の兆候が生まれてきている。

この出口戦略で目論まれていることに「集団免疫」がある。

感染が収束されず長期に渡る中、感染した高齢者、病弱者、貧困者などの多くは死ぬだろう。だが、若者、強健者など、70%は生き残り、集団免疫がつくられる。それでよいではないかという考え方だ。

そこで問題にしたいのは、人を犠牲にする出口戦略、これは正しい戦略だと言えるだろうかということだ。

私たちは、50年前、乗客の皆さんの精神的、肉体的苦痛、いや場合によっては、生命までも犠牲にして、自分たちの「革命」のため、ハイジャックを敢行した。

それを今私たちは、「人を犠牲にする大義に大義はない」と総括している。

そこで思うのだが、今日、求められているのは、一人の犠牲も出さない出口戦略ではないかということだ。

すなわち、「コロナ」の完全収束を徹底的に先行させる戦略だ。

そのためには、全国民一人の漏れもないPCR検査と陽性者の隔離と治療、さらには、感染者が現れる度に時を移さず励行する、追跡調査と検査、陽性者の隔離と治療ではないかと思う。

そして、「新規感染者ゼロが14日間連続」するまでの期間、全国民、全企業の生活と営業を、現金給付や税財政、金融政策などで国が支え保障することだ。

そのための財源は、アベノミクスで敢行された無制限の量的緩和とそれに基づく赤字国債の発行だ。日米大企業のためにできたことをこの国難にあって国民のためにできないはずがない。

以上を安倍政権に期待することは到底できないのではないか。

問われているのは、政権交代による新政権が日本の国のあり方を「国民のための国」「共同体としての国」に転換できるか否かにかかっていると思う。

「コロナ後の日本」がどうなるか、それはただひとえに、「並行」か「先行」か、犠牲を前提にするのか、それとも一人の犠牲も出さないのか、「出口戦略」をいかに採るかにかかっているのではないだろうか。

こんな日米協力がどこにある

魚本公博 2020年6月5日

5月8日、安倍首相がトランプ米大統領と電話会談し、コロナ対策での日米の提携・協力を合意。そこで首相は、米国の会社が開発中の「レムデシビル」の供給を要請。これを受けて、これを製造するギリアド・サイセンシズム社は、日本に無料提供すると発表。ただちに日本の厚労省は、この薬の使用を「特例承認」。この「異例のスピード承認」(新聞)によってレムデシビルは日本において新型コロナ治療薬の「承認第一号」になった。そればかりではなく厚労省は保険との併用を認めるという形で実質「保険適用」を決定。

「異例のスピード承認」というのは、この薬は、米食料医薬品局(FDA)が緊急使用を認めたが、「安全性と有効性は限られる」と釘をさしているもの。すなわち、この薬は肝機能に障害を与えるなどの副作用が指摘されており、まだ臨床実験中のもの。米国では被験者に高額のカネを出し、「結果については異議申し立てしない」旨の確約書を書かせて実験しているような代物だ。

ギ社も、この無償供与は「臨床実験」のためのものだと明言しているが、「臨床実験jとは有り体に言えば、「人体実験」。日本の首相が米国に頼みこんで、自国の国民を人体実験に差し出し、税金を使ってその実験を補償する。そんなバカな話しがどこにある。

何か日米関係の実相を垣間見させるかのような事例だが、ことは国民の生命に関する問題。このような日米協力は決して許されるものではない。

私には、レムデシビルが「デビル(悪魔)」のように聞こえてしかたない。

コロナ禍の渦中に「9月入学」? 

森順子 2020年6月5日

「9月入学」制度導入が唐突として出てきた。

新型コロナの影響で、子どもたちの教育の遅れ教育格差が問題化するなか、入学や始業を9月にすることを求める声が相次いでいる。

コロナの感染拡大はおそらく社会が変容するだろうと言われ、長期化した後はもとの世界に戻れるわけではない。これを機会に世界と同じく「9月入学」のメリットを生かすのがよいということだ。

だが、コロナが終息してない現在、緊急事態は解除されたが、いつコロナの2波、3波が襲ってくるかも知れない。そういうときに浮上した「9月入学」問題は、社会全体に影響を与え、とくに学校現場、生徒たち、保護者に不安と混乱をもたらすだけになっていると感じる。

高校生や父兄の多くに「今はコロナ対策に専念すべきだ。9月入学はコロナ対策と同時並行で進めるのは困難な課題だ」という意見があるが現実的だと思う。コロナ禍のための授業の遅れや提起される様々な問題と、「9月入学」制導入の問題は、別問題だということだ。今、求められるのは、コロナ対策に専念しながら、コロナ禍による授業の遅れをどう取り戻しそのためにどういう保障をしていくかということではないかと思う。

そもそも、ずっと以前から提起されていた「9月入学」を、コロナ禍が猛威をふるう中で、ドサクサに紛れて検討させることは、「国際基準に合わせる」という悪乗り便乗以外の何ものでもない。それは、人の生命を最優先に考えていないという証拠であり、そういう立場、観点で行おうとする「9月入学」とは、何なのか。

実際、「国際基準」を言うならば、コロナ禍で弱さをあらわにした今の欧米を前に、まだ「国際基準」を求めるのか、ということでもある。コロナ禍が「国際基準は欧米でない」ことを示し証明したと言えるのではないかと思う。

コロナ禍の中での「9月入学」論議は、子どもたちや次世代の30年後、50年後の未来を見据え、本当に必要な日本の教育を創り与えて行かなければならないことを提起したと思います。そうしようとすれば、人を大切にし、人の生命を守る対策がもっともっと必要だというのが、コロナ禍の教訓ではないでしょうか。日本の教育の未来も、それを最優先してこそ開けるのだと言えます。

紙の爆弾4月号 舩後靖彦「命の価値は横一列」から考えたこと~社会保障は弱者救済ではない

若林佐喜子 2020年6月5日

昨年の参議員選で「れいわ新選組」が登場。資金集めと立候補者に注目が集まりました。文中に筆者の「『全身麻痺ギタリスト』という肩書きからは、目から鱗の強いインパクト」という言葉がありましたが、実は私も目から鱗でした。

舩後氏の詠まれた短歌、「指一つ動かぬ我に生きる意味ありと覚悟を決めし日の空」は、何度読んでも目頭があつくなってしまいます。氏の強さと人への温もり。一体、この力はどこから湧いてくるのだろう。

氏の信念は「命の価値は横一列」。活動の原動力は、肉体的には会社「気づき」のスタッフたちのケアであり、精神面では難病と障害を持つ友人達を幸せにしたいという使命感です。障害当事者の方々に、「社会貢献できる力があるんだ」と確信して欲しいと、キャッチコピー「強みは障害者。だから気づけることがある」を考案。これは、氏の、人には必ず役割がある、また、心身機能に障害があってもサポートする社会的環境が整えば障害は克服できるという考えから出てくるものです。

氏は、施設入所時や地域で自立生活を始めたとき不適切なケアを経験し、障害者が不幸な社会はおかしい、障害の有無を問わず誰もが幸せを感じる社会を創りたいと考えます。そのためには、政治が最強という思いを抱き、自身の信念とも通じる「人の価値は生産性で測ってはいけない」とする「れいわ新選組」から参院選に出馬。障害・当事者参加の政治の先駆者になります。

このような舩後氏の姿は、障害を抱えていても「社会貢献できる力ある存在」と、迫力と説得力があり、障害者は、支えられる人、弱者というイメージはすっかり吹き飛ばされ、まさに目から鱗でした。

障害を抱えている人を弱者ではなく、力ある存在、貴重な社会の成員と捉えるとき、国の社会保障(制度)は、弱者救済ではなく、社会の一員としての権利の保障であり実現であるとストンと腑に落ちました。

社会保障は、恵まれ豊かな者が、貧しい人、弱者に上から下げ渡す救貧や弱者の救済ではありません。人々の社会の一員としての権利であり、国はその保障に責任を負うものです。

現在、コロナ禍との対応が問われている中で、国の責任が切実な問題として提起されています。特に、人々の命と暮らしを支える医療システムの構築、自粛要請に対する生活、休業補償は上から恵んでやるものではなく、国の責任です。

全身麻痺の障害を抱える舩後氏のどんな命にも役割がある、「命の価値は横一列」。

そうです、社会保障は決して弱者救済ではありません。社会の一員としての権利の保障であり、国の責任であると改めて重く受け止めました。

まだまだコロナ禍との対応が続きます。特に、舩後氏、木村英子氏にくれぐれも感染防止をお願いします。「れいわ新選組」の奮闘への期待とともに強い連帯の思いを寄せたいです。