アジアの内の日本 2020年5月号

「持病持ちや高齢者が減る」集団免疫が良策だって!?

若林盛亮 2020年5月20日

「中国式とスウェーデン式」と題した田中宇氏のブログサイトを見た。

そこには「スウェーデンの集団免疫のコロナ対策は個人の自由や尊厳を重視しており、世界で最もリベラル・自由主義だ」とあった。これについてははっきり言っておかしいと思う。

集団免疫とは、感染者にはコロナ抗体ができる、抗体のできた人が集団の70%を占めるようになれば、集団免疫力ができたことになりコロナを最終的に抑えられるとする方法だ。「感染封じ込め」ではなく感染者を増やすこと、「感染放置」を良策とする考え方だ。

「最悪の場合」と断りつつも「(感染放置を続ければ)持病持ちや高齢者が減り、残った人類の重篤な発症者が減る。人類の平均寿命が短くなるだろうが、人類は新型ウイルスと共存していく」とまで田中宇氏は言い切っている。それでもかまわないというのは、コロナ封じ込めのために国境や都市の封鎖を続けグローバルな経済活動を危機に陥れることこそ悪策だと考えるからだ。

米テキサス州副知事の発言は露骨に本音を明かしている。

「経済のためにわれわれの祖父母世代は(コロナ禍で)自己犠牲を厭わないだろう」

「集団免疫」を良策とする思想の根元、それは「持病持ちや高齢者=生産性のない人間」不要論だ。

あくまで私見だが、安倍政権のコロナ取り組みもその本質は「集団免疫」の考え方だと思う。

「老人には危険だが健康体は回復するから問題ない」と初動対策を遅らせ、対策強化を訴える一部のマスコミ人には「不安を煽るな」と圧力をかけつづけた。そしてコロナ禍拡大のいまは「封じ込めをめざするふり」をするコロナ対策、本心は「感染放置」=国は「要請」だけで何もしない。ここをしっかり見ておかねばならないと思う。

検査を優先させ感染ゼロへ

赤木志郎 2020年5月20日

現在、政府や自治体で経済再開とコロナ終息を段階的に並行してやっていくというのが主流となっている。コロナ終息の目安は、人口10万人当たり0,5人以下の新規感染者だそうだ。東京都なら50人、大阪府なら40人くらいとなる。一日、二つの都市で90人の新規感染者というのは多いと思う。かれらから拡散するおそれが十分ある。あくまで経済再開とコロナ終息を並行的におこなうための目安となる数値の問題だ。

ところで、感染者数については傾向として減っているが、正確なことは検査をどれくらいやったのか分からないのであてにならない。何か症状が出ている人のみ対象とすれば無症状感染者を把握、隔離できない。PCR検査が少ないことにたいする批判が相次いだので

厚労省は5月に入ってPCR検査の目安を熱があれば医者に相談するというものに変えた。だからといって、その後、PCR検査が大きく増えた話はでてこない。一日2万の検査能力があるが、これまで最大で1日で8千件だった。検査をやっていると言って実際はやらない、検査を増やすといって実際は増やしていない。

コロナウイルスとの戦いは、検査が基本だというのがないのが一番の問題だと思う。そうしない原因は感染者を探し、隔離と治療でその数を減らすという生命第一の観点がなく、多少の犠牲があっても経済を優先させようという考え方にあると思う。

 周知のように無症状感染者を捜し出し、隔離と治療を行わなければ、感染拡大をいつまで経ってもなくすことができない。第二、第三の波が確実に来ると言われている中で、感染拡大をなくす方途が検査だ。もちろん、接触を防げば、感染率は低下する。しかし、感染者がいる以上、根本的な解決にはならない。ずっと接触を避ける措置が必要となる。社会活動を再開させるためにも。徹底的に検査し無症状感染者を見つけ、隔離・治療していくことではないか。

並行してやるのではなく、検査を重視し、新規感染者を徹底的に探し出し、ゼロにしていくこと、これを優先させることではないか。そうしてこそ、経済再開も軌道に乗せることができる。中国や韓国の例を見てもそうだ。

覇権世界の矛盾の大爆発、「新型コロナ」禍

小西隆裕 2020年5月5日

今、世界は「新型コロナウイルス」禍を離れてはあり得ない。この史上類例を見ない大惨禍をどうとらえ、これにどう対するか。それを抜きに、現在も未来も語ることはできない。

今日、この惨禍をグローバリズム、新自由主義の破綻、崩壊と見、「国」による事態の収束を見ながら、「コロナ後の世界」に「強権」や「鎖国」を懸念する風潮が生まれてきている。

こうした流れを見る時、思うのは、グローバリズムや新自由主義を人間にとって良いものと見、「国」を否定的に見る思考がまだまだ色濃く残っているという事実だ。

そこで想起してほしいのは、今回の「新型コロナウイルス」による惨禍がグローバリズム、新自由主義の本場、欧米でもっとも甚だしい事態に陥っているという事実だ。その要因は、他でもない、そこに「国」がないからだと思う。

「国」がないと言えば、語弊があるかも知れない。しかし、EUや米国にあって、自らの「国」と国民を守る、国境をはじめ、規制という規制がもっとも著しく緩和、撤廃され、「小さな政府」の名の下、弱肉強食のジャングルの論理むき出しに、「国」が「国民のための国」としての体をなさなくなっているのも事実ではないだろうか。

その欧米で、「自国第一主義」の嵐が世界のどこにも増して強く吹き荒れ、今もその勢いが衰えていないのは必然だと言えるのではないかと思う。この「自国ファーストを求める大衆的進出」を「極右ポピュリズム」などととらえ、その歴史的必然性を見ようともしないところに、今回の「新型コロナウイルス」禍の根因の究明など決して期待できないのではないだろうか。

その上で確認すべきだと思うのは、集団という集団をすべて否定し、集団の中でも基本中の基本集団である、人々の生活の基本単位、「国」そのものを否定するグローバリズム、新自由主義が、国々の「国」としての尊厳を蔑ろにしながら、その上に覇を唱え、君臨することを正当化する覇権主義の極致、究極の覇権主義だという事実だと思う。

今回の「新型コロナウイルス」禍は、まさに、この究極の覇権、すなわち、人間の生命第一の共同体、人々の生活、生の営みを守ってくれる拠り所である「国」そのものを否定し、著しく弱体化させたところから生まれた矛盾の爆発だと言うことができるのではないだろうか。

実際、今回の惨禍で余すところなく露呈された欧米「先進国」の医療体制の衰弱、医療施設、設備、物資の不足。一方、膨大な不法移民、難民、貧困層への医療保険、生活保障の欠如。それら貧困層が置かれた劣悪な医療環境、生活環境が「新型コロナウイルス」感染拡大の源泉となり、温床となっており、貧富の格差が、即、生命の格差となって現れるようになっている。「世界最悪の感染大国」となった米国に見られる、感染者、死者の大多数が黒人、そしてヒスパニックの貧困層という現実はその証だと言うことができるのではないか。

米国は、この数十年間、グローバル化・新自由主義化された世界を各国の構造改革の目標に掲げるよう求め、その上に君臨してきた。国境なき世界統一市場への支配、絶対的核軍事力による恐怖の「ネオコン」世界支配だ。

だが、この覇権の極致、究極の覇権の寿命は存外短かった。宣戦布告なき新しい21世紀型の戦争、イラク・アフガン反テロ戦争の泥沼化、世界的な格差と貧困、極度の経済不均衡による長期経済停滞とリーマン・ショック、それらにともなう数千万移民、難民の大群と世界に広がる自国第一主義、新しい政治の大乱。

「米国第一」を掲げる矛盾に満ちた「トランプ覇権政権」が誕生したこと自体、その反映であり、今回の「新型コロナウイルス」禍は、こうしたグローバリズム、新自由主義による究極の覇権から生まれた矛盾の最終的大爆発だと言うことができるのではないだろうか。

「出口戦略」に思う

魚本公博 2020年5月5日

今。コロナ禍蔓延の中で「出口戦略」なるものが取りざたされている。すなわち、コロナ禍で外出、移動、営業などの自粛措置がとられているが、それをいつまでも続ければ経済活動が成り立たず、ひいては人々の生活も困難になるのだから、そこからの「出口」を考えようということ。

しかし、問題は「人の命」。この「出口論議」では、「少々の犠牲はやむをえない」という立場に立つ。しかし、国がそういう立場に立ってよいのか。犠牲は先ず「弱者」から。ネットカフェで寝泊まりするフリーター、シングルマザー、不安定雇用の共働き家庭、老齢の年金生活者。あるいは零細な営業者などなど。結局、「少々の犠牲はやむをえない」という立場では、「弱者は切り捨てる」になるということだ。

安倍政権は、この方針をコロナ禍の初期から採ってきたと思う。それを端的に表すのは、内閣でのコロナ対策担当を経済再生担当相(西村)にしたことだ。彼らにとって、コロナ対策とは。経済対策であり、それも働く人や零細企業などは眼中になく、大企業のための経済、経済活動再開なのである。

「少々の犠牲はやむをえない」という考え方をしてはならない。人は一人一人が存在価値があり、犠牲にしてよい人など一人もいない。こうした立場に立った「国民の命と暮らし」に責任を持つ政治の追求と実現。コロナ禍の中、そうした模索が切に問われていると思う。

なぜ不評?安倍政権のコロナ対策

森順子 2020年5月5日

最近、安倍政権のコロナ対策は不評です。それに伴って「これまでの対応も評価しない」「指導力発揮してない」という声も多い。この不評は、政府の発信や対応が民意に応えていない頼りない政府の現れであるのは言うまでもありません。コロナに苦しめられ皆じっと耐えながら、元の生活に戻れることを願っているなか、国の政治は一体何をしているのか、ということです。

そんな中、自民党の石破さんは、「自粛要請」を実施したことについて、日本は欧米のように罰則を科したりしなくても、国民が自主的に政府の方針を受け入れ理解してくれるという信頼関係があるからだ、と言ったそうです。一見、国民を信じ尊重しているかのように聞こえはいいですが、現実は、「自粛要請」という名の「自己責任の押しつけ」と「国の責任の放棄」として現れています。緊急事態宣言から3週間以上経っても、感染者数は歯止めがなく、亡くなった人数も増え自粛の成果は見られず、俳優の岡江久美子さんが急逝したときには、今の自粛程度では無理だという声が多くありました。行き先が見えずの今、政府への不信は深まり、国民との間の信頼はさらに揺らいでいます。

ある家族の家が全焼したら、その家の主は、借金してでも金を工面し家族の命と暮らしを必死に守るものです。国もこれと同じことだと思います。そういう意味では、国と国民は日本という姓の一つの大きな家族です。そうであれは、国は、家族である国民に降りかかるどんな困難からも救い、保障や援助をして安心して暮らせるようにすることが、国の役割のはずです。そして、その役割を果たす心は、国民皆が自分の大切な家族だから、という理由だけだということです。国民皆と自分は、日本という大きな家族、共同体の中にともに存在し、運命もともにある同胞だという温かい心情なくして、どうして苦境にある国民を理解することができるでしょうか。守ることさえできないでしょう。

誰でもが心の根底に流れるこのような心情は、国と国民のために尽くせるようにする心の糧であると同時に、国と国民を結びつける信頼に繋がるものだと思います。それは、結局、国民第一の政治を行うことを置いて他にはないと思います。

さて、安倍政権内に、国民を大切な家族のように感じる心の持ち主がいるのでしょうか。