-「脱属国論」の鋭い提起-「戦後日本」は曲がり角に立たされている!

若林盛亮

「脱属国論」(田原総一郎、井上達夫、伊勢崎賢治;毎日新聞出版)という本が出た。「ハト派中のハト派からの改憲論」が目玉だが、主要な論者、井上達夫(東大大学院教授)氏の主張は「米国の属国であった“戦後日本”」、この属国状態から脱するための改憲というものだ。その改憲論の正否はさておき、注目すべきは「憲法9条は米国の戦争荷担国家という現実から目を逸らさせる隠れ蓑にされてきた」という問題提起だ。これは的をついたものであり、鋭い論点だと思う。

「戦力不保持、交戦権否認の憲法9条では日本を守れない」、具体的には「(憲法9条の縛りを受ける)自衛隊では日本を守れない」、だから「攻撃能力保有の米軍の抑止力に依存せざるをえない」として日米安保基軸の防衛路線を戦後日本はとってきた。

日米安保条約は併せて締結された日米地位協定をもって、日本全土のどこにでも米軍基地設置は可能、自衛隊基地も自由に米軍が使用可能、また日本の基地から米軍が他国攻撃に出撃することを止めることはできないと規定することによって、日本全土の戦争基地化を合法化してきた。事実、ベトナム戦争では沖縄カテナ基地が米空軍のB52爆撃機の出撃基地として使われた。

「9条では日本防衛は不可能」と憲法を盾にとって、日本を米軍の侵略戦争(ベトナム、アフガン、イラク)に自由に使用可能な出撃拠点にし、9条平和国家日本をその実、「戦争荷担国家」にしてきたのが戦後日本だった。戦後日本は米国の侵略戦争の基地にされても文句一ついえない属国になった。これは井上達夫氏の主観ではなく戦後日本の歴史的事実であり、いまも続く今日の日本の現実だ。

私事になるが、この間「50年後の発言 赤軍だった私たちから」(仮称)という本の原稿を書きながら、「よど号赤軍」に至る個人史を考える機会を得た。そこでは私が「戦後日本にこそ革命は必要」と考えるようになった原点は小学5年時の強烈な体験にあるとしたが、それは以下のようなものだ。

戦後民主主義教育のリーダーと言われた教師から授業の合間に軍隊体験談を聞かされたことだが、「中国人捕虜を使って銃剣の刺殺訓練をやった、刺した銃剣はまっすぐではなくくるっと廻さないと抜けない」という話には幼心にも違和感を持った。いま考えるとそれは「戦後民主主義と中国人捕虜刺殺とはイコールで結ばれている」、そんな戦後民主主義への強烈な違和感だった。

戦後日本は、「民主教育」教師の語った「中国人捕虜刺殺の軍隊体験」、すなわち大日本帝国・皇軍に拠った侵略戦争を米軍に依託した、その米軍事力によって守られた米中心の国際覇権秩序の下で自己の海外権益を維持し、戦後の経済的繁栄を享受してきた。言い換えれば、自己の覇権的な海外権益擁護を米侵略武力に依託する日米安保基軸の防衛路線の下で、米軍基地の無制限の設置、自由使用を許容する地位協定を結び、自ら進んで日本の軍事主権を米軍に譲渡する属国化を「国のあり方」としてきたと言うことができる。軍事的従属は政治的、経済的従属を同伴するが、米国への「積極的な属国化」による海外権益確保、それが戦後日本の生き方だった。

しかし今、東北アジア、朝鮮半島で起きている地殻変動は、「戦後日本」が依拠した米中心の戦後世界覇権秩序の不条理(朝鮮で言えば、朝米間の戦争状態維持=南北分断、敵対の固定化)への挑戦であり、正義と条理にかなう新しい国際秩序をうち立てる闘いでもあるということだ。これに対して日本は敵対するのか否か、もう「蚊帳の外」は許されない、ならばどう臨むのか?

「戦後日本」は曲がり角に立たされている。私たち「よど号」は東北アジア新時代、その地殻変動の中心にあって、井上氏らの問題提起を戦後日本の「国のあり方」を根本から見直す議論として考えていきたいと思う。(初出:「救援」602号 6月)