“SUZE”-ピカソとボブ・ディランを輝かせた酒

若林盛亮

孫と爺の初顔合わせのために里帰りする「よど号の子供」一家に酒一本持参を依頼。その酒の名は“SUZE“(スーズ)、野生のリンドウの根(ゲンチアナ)をベースにした輝くような黄色の仏産リキュール。

私がSUZEを強く所望したのは、その酒にピカソとボブ・ディランの物語があるからだ。
リキュールというので食前酒かとそのまま飲むとハーブ(ゲンチアナ)の苦みと甘みが強すぎて皆からは不評だった。しかしライムとシロップを加えシェイクするとSUZEのかすかな苦みとライムの酸味がブレンドされて深い甘みを感じられるカクテルに変身した。シャンパン割りというのもあるそうだ。

そうかこれがあのSUZEなのか! と不思議な色合いと味わいを楽しんだ私は、この酒の紡ぐ物語をここに記したくなった。

まずは“SUZE”がピカソを輝かせたという物語。
20世紀初頭、世界中から多くの芸術家がパリのカフェに集まっていた。ピカソもその一人だったが、その頃彼は友人の自殺などもあって、貧困と孤独の中で苦しんでいた。その絵も後に「青の時代」と呼ばれる沈鬱な色合いだった。SUZEはそんな彼が愛した酒、その黄金のような輝きの酒を愛したピカソ。やがて彼の絵もSUZEの色合いと同じように明るい輝きを取り戻していく。

もしピカソがSUZEと出会わなかったら、その絵も違ったものになっていたかも知れない。これは城アラキ原作の漫画「Bartender」からの受け売り、でもお酒が芸術家を育てるというとてもいいお話。

次はボブ・ディランを育んだ“SUZE”の物語、実はこちらが本命。
こちらのSUZEはディラン初恋の女性の名前。この方との出会いがなければ、ミネソタという田舎出のフォークを愛するただの青年ディランを「世界のボブ・ディラン」にした不朽の名曲「風に吹かれて」など初期のプロテスト・ソングは生まれなかっただろうと言われる。

この方の父母はイタリア移民、父は娘にアメリカ的なありふれた名前、スーザンと名付けた。でも本人は自分独自のものがほしかった。あるときピカソの本で彼の愛した酒を描いた「グラスとSUZEの瓶」というコラージュを発見、これだ! と直感した彼女は、以来、自分の名をピカソの愛した酒にちなんでSUZEと呼ぶようにした。

ニューヨーク生まれの都会っ子、本名Suze Rotlo(スーズ・ロトロ)は共産党員だった父母の影響もあって「赤いオムツの子たち」と周りから見られた世代。当時のアメリカ南部ではバスも食堂も黒人は白人のそれとは区別され、白人のバスに乗れば暴力的に排除されたそんな時代、多感な十代のSUZEは黒人公民権獲得の運動に熱心に取り組んでいた。そんな頃、音楽好きの彼女はあるマラソン・フォーク・コンサートでボブ・ディランに初めて出会った。「わたしとボブは・・・早い時間からおしゃべりを始め、一日が終わるまで話しつづけた」とか。

17歳のSUZEと20歳のディラン、「そのころには、ボブと私は離れるのがいやになっていた」-「恋まっただ中の二人」を見事に表現したSUZEの名言。

SUZEは天才的資質を持つディランに黒人の公民権やベトナム反戦などの社会問題に目を向けさせ、ピカソなどの絵画、ブレヒトの演劇、ランボーの詩に接しさせた触媒のような存在。そんなSUZEとの出会いが化学反応を起こし、「風に吹かれて」「時代は変わる」「激しい雨が降る」など数々の初期ディランの名曲、プロテストソングが生まれた。

ディランにとってSUZEは女神のような存在だったことだろう。しかしSUZEは恋人が名声を博するに伴って、自分が「ボブ・ディランの恋人」としてしか世間から見られないことに苛立ちを感じ、「ボブ・ディランのギターの一本の弦にはなりたくない」と別離の道を選択する、ディランへの絶ち切りがたい想いを残しながらの潔い別れ・・・

彼女は60歳を過ぎて「若き日々の感情やその意味をおだやかに振り返ることができる」ようになるまで、ボブ・ディランとのことはいっさい誰にも語らなかったという。

私はこんな潔い女性、SUZEにすっかり惚れ込んで彼女の自伝「グリニッジ・ヴィレッジの青春-FREEWHEELIN’ TIME」も読んだ。

“SUZE”というお酒も潔い飲み方をすべきなのかも。