第15回 かりの会・帰国支援センター総会 開催される

かりの会・帰国支援センター総会が、九月二三日、新橋の港区立生涯学習センター(ばるーん)で行われた。本来は秋風の吹き始める涼しい頃だが、今年は酷暑、蒸し暑い中、参加者は二四名。司会(進行)はT氏。

第一部【年間活動報告】

帰国支援センター代表 山中幸男氏。
来年は一九七〇年三月三十一日「よど号ハイジャック事件」から五〇年になる。来年の方針にかかわることですが、本活動報告後、「八月下旬の山中訪朝団のビデオ」と「小西隆裕さんの本総会への挨拶」を参考にしていただきたい。本総会資料の「アジアの内の日本を考える会」の立ち上げに際しての趣意書にも目を通していただきたい。また、一年間の会計報告もご確認いただきたい。

今年(二月)はハノイで二回目の朝米首脳会議が行われたが、結果的に破綻した。六月の大阪でG二〇の後、トランプ大統領が韓国を経由し板門店で三回目の朝米首脳による会議(アメリカは対面)が行われた。朝鮮半島は大きく変わろうとしている。

今年度、かりの会帰国支援センターは、資料目次にある「ツイッター継続とウエブサイト開設」「旅券発給の闘い」の活動を続けてきたが、来年はよど号のメンバーは、渡朝五〇年という節目。東京はオリンピックも控えている。第二次安倍内閣も七年目に入った。この間の大きな出来事としては、かつての二〇〇二年九月一七日・日朝ピョンヤン宣言以来、安倍内閣になってからは、ストックホルム合意があったが、日朝関係は事実上、機能不全に陥って今日にいたっている。朝鮮に対する敵視政策は変わらず、国連決議による経済制裁、そして日本政府が独自に行っている経済制裁も続いている。さらに在日の人々の学校教育(民族教育)に対する差別、ムン・ジェイン政権に対する極めて問題の多い政策がダブルで、あるいはトリプルで進行していくというのが現状だと思う。

来年以降は、今日の総会を踏まえて、帰国問題を含めて更に進展させていきたい。

①ツイッター継続とウエブサイト開設の現状

ツイッター継続:Kさん
この一年くらいの流れを伝えたい。設定とかが微妙に変更されることがあり、その都度、より改善した形でより交流しやすい形にと考えてやっている。

最近は時々、検索がうまく出なくなったのをきっかけに、皆の返信とは別に、誰かは不明の匿名の個人とずっと続いていたり、公開の形でできるものをメインに変えた。すると好意的なものや細かい質問が広範囲に渡ってあり、コミュニケーションぽくなってきたし、どんな人たちなのかが伝わるようになってきた。

また、政治的な質問にも丁寧に答えており、以外と面白くなってきている。月一回更新しているので、開いて見ていただきたい。

ウエブサイト開設の現状:Sさん
一ヶ月に二回更新している。政治亡命者の方がこうして長いこと自由に情報発信しているのは、なかなかないと思う。開設した当時、産経新聞が紹介してくれたが、その時、ツイッターで言い得ないことをこちらで言っていると書かれた。しかし、それは間違いである。これは帰国運動に向けたもの。

もし、皆の帰国が決まったら、報道されると思うが、その時、これがないとメディアがメディアの視点で発信する情報しか挙がって来ないと思う。サイトには、本人たちは何を言いたいのか、何故、朝鮮に行ったのか、なぜ、日本に帰ろうとしているのか、ということがきちんと出て来る。本人たちが本人たちの言葉で書いたものが出て行くべきだと思う。それで、続けている。

右に、「あなたの一言」というのがあるが、全く知らない三〇代ライターの方から手紙が来て、それに四人が答えたものである。「具体的に当時のことを知らないので、どうか教えてください」とのことで、四人が返事を書いている。

私としては、非常に素晴らしい文章を寄せてくれたと思うので、読んでいただければと思っている。

今後も従来の方針でやっていく。

②旅券発給の闘いの現状

I氏の報告
 資料としては、①総会資料、②審査会に提出した小西隆裕さんの意見書、③特定行政書士Nさんの「外務省主張書面への反論書」の三つです。

 私からは、これまでのK・Tさんの旅券発給の闘いの経緯について、簡単に説明したいと思います。

 一九七〇年のハイジャックから来年は五〇年。ピョンヤンには六人の方が亡命者という扱いで在住しており、魚本公博さん、森順子さん、若林佐喜子さんには欧州拉致に関わったということで逮捕状が出され、今も指名手配中という現実があります。

 彼らは当初からでっち上げであり、冤罪であると訴えていましたので、ピョンヤンと相談して逮捕状の撤回を求める闘いを国賠(被告東京都・警視庁の逮捕状請求行為は違法)を通してやろうではないか、ということで提訴しました。

 国賠裁判では、被告とのやりとりの中で、結婚目的誘拐罪は親告罪であり家族・親族が告訴する場合にのみ成立しますが、本件の場合、具体的に誰が告訴したのかを被告は釈明しませんでした。非常に曖昧なまま逮捕状が出されていることが明らかになりました。最高裁までやりましたが結局、敗訴となりました。国賠後、逮捕状の撤回を求める闘いを具体的な運動としてどうすすめるべきか、議論しました。

 K・Tさんは現在も旅券発給拒否されたままです。その理由は、よど号グループは「欧州拉致」にかかわり、いまも逮捕状がだされていること、Tさんはいまもグループの一員であり「危険人物」ある、というものです。この闘いは、まずはTさんの旅券発給を克ち取ること、そしてもう一度この闘いの中で、その拒否理由となっている「欧州拉致」のでっち上げを明らかにしていくということです。

 二〇一二年に、Tさんは帰国後、一回目の旅券申請をしました。その翌年に外務省(当時の外務大臣岸田文雄)から発給拒否の通知書が来ました。今回は二回目の申請です。
 総会資料に<審査請求から採決までのフロー>図を書いてみました。現在は第三者機関の総務省・行政不服審査会第三部会(三委員)で審議中です。

 山中さんが中心となって、子供たちは全員(二〇人)帰国して、子供たちに限っては、ピョンヤンとの往復も実際に行われています。ところが、Tさんはじめ、それぞれのパートナーについては、現在も旅券の発給は拒否されています。Tさんの闘いを通して全員の旅券が発給されるよう運動をしていきたいと思っています。

 審査庁(外務省)の審理員審議から現在は第三者機関である審査会に移っていますが、審理員審議では支援者を含めて四人の意見書をはじめ膨大な資料を添付し全力投球で審議に臨んできましたが、審理員の意見は外務省の処分を踏襲したものでした。外務省はこの審理員の意見を添付し審査会に諮問しました。

 審査会での直近の書面のやりとりですが、外務省は審査会に二通の主張書面を提出してきました。六月十八日書面と八月二十八日書面です。前者は外務大臣と法務大臣が協議し法務大臣からもお墨付きをもらったというものです。いずれも拉致、テロ、工作員、日本赤軍との関係についても触れ工作活動に再び復帰する可能性があり「危険人物」であるというものです。外務省は、このフレーズを何回も繰り返す主張をしています。ピョンヤンの六人はハイジャックについては自己批判して帰国後、裁判を受ける、さらに、「拉致容疑の逮捕状が撤回されれば、日本に帰国する」と明言しています。このことは外務省も知っているはずです。また日朝関係の架け橋にもなりたいとも言っています。今こそ必要なのは日朝の交流であり、Tさんらにも旅券を発給し人的交流を進めることです。同時に日本(政府)は独自制裁や圧力一辺倒を見直し、「過去の植民地支配の反省とお詫び」を表明した「日朝ピョンヤン宣言」(二〇〇二年)に戻ることです。旅券発給拒否の撤回を含む具体的な行動で一歩一歩「信頼醸成」を図り、将来的には「日朝国交正常化」へ向けて舵を切ること、これが外務省のすべきことであると思っています。

 今後、もし、行政審査会が外務省と同じような結論に達するのであれば、旅券発給拒否の取消訴訟をするつもりです。訴訟の準備もしています。

N氏の報告
 特定行政書士のNです。特定というのが付いているのですが、行政不服審査の代理人になれるというものです。全国に一二万人くらいいる行政書士の一割位がこの資格を持っています。ところが、行政不服審査法に基づいて、こういう不服申し立てを行っているのは、全国でたぶん私だけだと思います。

 法的なことを言いますと、旅券法の第一三条一項七にこう書いてあるんですね。「著しく、かつ、直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当な理由がある者」、何だか分らないですね。要するに日本の利益を損なうようなことをやりそうな人と言っているわけです。そして、これを外務省は審査請求の中でも、かなり悪辣に言っていますが、今回はそれに輪をかけて酷い内容だったんで、私が書いた反論書の二ページ目に私は精一杯の悪口を言っています。「すべて事実無根、事実誤認、虚偽、憶測、推測ないし偏見さらには時代錯誤によるもの」とそこまで私は怒っていまして、外務省というのは外交の実務をやっている省庁だと思っていたんですが、朝鮮に関する限り、外交的手腕というか、知識も情報も何もないんではないか、単なる偏見だけですべての物事を処断しているのではないかという風に思われます。

 例えば、朝鮮に行った人間が意味もなく拉致される、拘束されると言う。そういう事例があるのか、調べて見たんですが、そういう事例はないんです。日本人で拘束されていた人は二人いるんですが、どちらも触法事案です。軍事施設の撮影であるとか、日本の公安に頼まれて朝鮮のことを調査した、スパイ行為ですね。こういった問題のある事案なので、彼らの言うような「理由のない」事案では全くないんです。私も一〇回位行っていますが、そのような危機感を感じたことは一度もないし、ましてやKさんが朝鮮に行って、拉致されたり拘束されるなど皆無です。しかし、これを彼らは大きな理由にしています。

 問題なのは、そういった偏見とか憶測とかに基づいて、朝鮮に対する外交的手段を行使していくことが問題なのです。例えば、外務省は自分たちがどんなに拉致問題の解決に努力してきたかといっぱい書いています。でも、拉致事件はどうなっていますか。全く何も起こっていないですよね。

 ところが外国なんかでは、政府の高官が乗り込んで行って、直接交渉して釈放してもらうとか、いろんな手段を使って自国民の救済というか防衛をしていくということは当たり前のことなのです。しかし、日本国家はそういうことを全然していないというのもすごく問題だと思っています。

 すべて自分たちがやってこなかったことの責任のすり替えで、今回、この問題もやっているのではないか。彼女の旅券を発給することは、なんら正義に反するものではないことを今後も強く訴えながら、行政不服審査会の中で、どういう結論が出るか分りませんが、その結論次第では行政訴訟も含めて最後まで闘って行きたいと思います。以上です。

三浦俊一氏の訪朝報告
山中団長以下、五名の方が行かれた三日後、一人で来いと言われても誰だって考えちゃいますよね。何を始めるつもりなんだろうと。実はこれ二回目で、その前も一人で来てくれと。一人で来いと言われても、北京空港のあの広い中でどうやってカウンター探すのか、分かんないし困ったなと思ってたんです。でも、一人で来いと言った意味が分ったんです。話が飛びますが、辺野古の問題があったんです。

ドイツのテレビ局が辺野古の取材に来たんです。その時、ごぼう抜きにされていたのが私で、インタビュー受けたのが私だったんです。日本のメディアは全く無視したんですが沖縄の置かれている位置は、日本の中の植民地と同じだと言い続けたんです。なんとそれ、ピョンヤンの国営放送のテレビが流していたんです。小西さんたちは大喜びになっちゃって「来い、来い」と。みんな村の人たちに紹介するわけです。「これがテレビに写ったタオルを被ったオヤジだ、オヤジだ」と。それが入り口だったですが、問題はその後、具体的な話というのは、皆さん先輩の方々が多いので、簡潔に申し上げます。

まず、一人で行きますと困るのは何か?一対六の論争になるということです。五対六位になれば場が持てるんですが、一対六で議論してますと間を取らなければいけなくなります。疲れちゃいます。(「洗脳される」との質問が入る)「洗脳される」という言葉も出てきますが、「良いと思ったら、私はそれで良いと思うと言います。これも洗脳と言うんでしょうか」「いや、そういうことはない」と正しい指摘をいただきまして、但し、議論だけはよくしました。今の国際情勢の問題、六五年の日韓条約以降の日韓関係、そして朝鮮半島情勢、そしてトランプの登場、グローバリズムの崩壊と一国主義の、言うなれば一国ファーストの時代の到来の中で、日朝関係はどうあるべきかをめぐって実に良く議論しました。 
ところが、議論が終わって、また今日も終わった。良かったと思って部屋に帰って、こっそり皆さんが集まったところに行って、冷蔵庫からビール出して、一人でにこにこと外を見ながら飲んでいると訪ねて来るんです。小西さんが「どう思うんだ」と。「いや、明日にしましょうよ」と言っても「いやいや、今しかないから、今しかないから」と。そして若林さんが来て、六〇年代のホップスの話を始める。

映画の話から、政治の話から、あげくの果てには「小西さん、何で野球部辞めたの」という話も出て・・・。全部を話して、そういう意味では仲良くというか、忌憚のない信頼関係は作れたと私は思っております。

一人で行くメリットは、非常に多くの議論を多岐に渡ってできるということと同時に、私自身が学ぶことが非常に多いということです。彼らは良く勉強してます。もちろん、くい違いもあります。「しゅうかつ」という言葉、皆さんご存じだと思います。小西さんたちと私が約束したのは「終闘」です。「終わりまで闘う」という、これが私たちの生き方だということを約束して。帰って来たらメールが入っていまして、「われわれのキーワードは『終闘』」。そういう風な議論を含めて、一人で行って、きちんと議論する。

そして、歳をとりましたから、意見の違いを昔のように指さし確認で「何、言うてんねん」という風なことが全くないのが、私、非常に嬉しいです。「ここは少し違うようだ。明日まで少し考えよう。宿題にしようじゃないか」と。帰る間際まで、宿題はいくつかもらいました。帰って来てから回答を書きました。

なかなか一致しないところもあります。それは帰国問題です。帰国問題と拉致問題、この問題については、いくつかの点で、認識が違っておりました。私は、よど号の結婚目的の誘拐の逮捕状撤回が前提だということに対して、それを前提とせずに、強行帰国したらどうかと提案したんです。公判で争ってみたらどうですか。勝てるはずです。もちろん、楽観的な見通しで言ったわけではありません。井上さんたちが書かれた「えん罪・欧州拉致」等々、十分に読んで行きました。これについては、もちろん意見は一致しませんでした。しかし、それは一致しなくて良いと思います。むしろ今後、国内でどういう運動を作るのかということによって、この問題についての結論は出て来るはずです。明らかに国家的な捏造の逮捕状の請求ですから。三ヶ月に一回、ズーと逮捕状更新をし続けているわけですから。まれに見る国策だということについては一致しているわけですから。

そして彼らは、二~三年以内に何とかめどを立てたいという提案をしておりました。二~三年では困るんだというのが私の意見です。二年なら二年という時間を区切ってほしい。区切ってくれたら、私は自分が何をやるか決められるし、つねに闘い続けて来られた多くの皆様方と一緒に自分の立ち位置を作って行きますと。わけても関西で作りましょうと。ということで、皆さんと一致しました。

ともかく、一対六、五対六の議論は、時に集中放火を浴びますけれども、私の前に行かれた五人の方が非常に個性的な方で、わけても小沢遼子さんが大変、みなさんの興味の対象になっておられ、某氏も言いたいことを言ったらしくて、「ああ、こういう意見もありそうだ」「ああ、あるんだね」となって、「私一人の意見よりみんなの意見を聞いた方が良いんじゃないですか」と言ったら、「みんなの意見をもっと聞けるような仕組みを作りたいんだ」となって、SNSの方に話が飛ぶわけです。そういう風に話が、どんどん、どんどん飛んでいって、最終的にどのような構想とイメージを作るのかということになりました。それが、今回、行った一つの大きな成果です。

構想を作ろうと、「帰国」という問題についての構想を具体的に作り、運動にし、さらに広げて行くためには何が必要かということを相互に考えようということで一致して、ただ、今メール開くのが大変怖いです。長々とした文章が入って来るんです。あれに一個一個回答していったら、ダメですよ。ビールが飲めなくなっちゃう。そんな感じで、僕は実に有意義な時間をいただいたと同時に、付け加えて置きます。

先日、キム・ヨンナム氏だと思いますけど、韓国情勢の講演会がありました。その前に二回ほど行ったんですが、何故、日朝関係の問題が百人から百五十人の聴衆の前で出て来ないんだということについては提案しました。日韓関係はつねに議論の対象になるけれども日朝関係についての議論は全くされていないのは、おかしいのではありませんか。ある時は拉致問題について、「左翼は黙っている。知識人は全員沈黙してしまっているというのは、どういうことなんですか? はっきりした態度を示しましょうよ」と提案したんですけど、力不足でダメ。今のところは棚上げになっています。

でも私は言い続けます。日朝関係どうするんですか。はっきりした私たちの態度示しましょうよ。拉致問題、これも国家的な捏造ではないかという私たちの意見はしっかり言いましょうよ。これが本当の意味での日朝友好に繋がり、東北アジアの安定と平和、協調と繁栄に繋がっていくんではないか。これが私が洗脳された一つの持論でありまして、私の洗脳以上の確信になっております。

時間をいただきました。ありがとうございました。

続いて、ピョンヤンから送られてきた、訪朝団ビデオとビデオメッセージが上映され、「アジアの内の日本の会」結成の趣意書をK・Tさんが代読しました。た。

ビデオメッセージ

帰国支援センター総会に参加された方々へのご挨拶
 このたび、山中代表団の方々をお迎えし、いろいろとお話をすることができ、私たち一同、大変嬉しく有難く思っています。そうした感謝の気持ちをこめながら、今日、この総会にお集まりの皆様に私のほうから一言ご挨拶を申し上げたいと存じます。

 私たちは、来年よど号ハイジャック五〇周年を迎えます。その節目の時を迎えながら、私たちはそれを単なる節目とするだけでなく、これからの闘いの発展のためのひとつの大契機にしていければと願っております。

 私たちが日本人を拉致したとされる、いわゆる「よど号拉致問題」は、どこまでもアメリカが朝鮮を敵視し、支配するためにでっち上げた古い覇権と敵対の時代の遺物です。
私たちはその古い時代の遺物を見直し帰国することによって、今、世界的に、そして東北アジアでも、日本においても発展してきている新しい時代の転換を少しでも促進するように役立てればというように思います。

 そのために私たちは、このたび、アジアの内の日本の会を立ち上げて、これまで以上に積極的に執筆し、日本の進歩的な運動や組織との連携、連帯を深め、そのために少しでもお役にたてればというふうに願っています。

 来年よど号ハイジャック五〇周年を、そのためのものにすることが出来ればということです。私たち自身、全力で尽くしていく覚悟でいます。しかし、それは私たちだけの力ではどうすることもできません。ただひとえに、皆様方のご協力、ご尽力あってのことです。どうか皆さん、私たちのそうした気持ちをおくみとりくださり、ご支援よろしくお願い申し上げます。              
九月二三日 
ピョンヤンかりの会 
代表・小西隆裕

「アジアの内の日本の会」を立ち上げるに際しての趣意書
私たちが日航機「よど」をハイジャックし、ここ朝鮮に飛んで来てから、来年三月で五〇年になります。

この間、日本も朝鮮も、アジアも世界も大きく変わりました。しかし、変わっていないものもあります。日本と朝鮮の敵対的な関係です。

私たちが朝鮮へのハイジャックを決意したのも、この関係があったからですが、それは、日本にとっては決して良いことではありません。

そしてその良くない関係は、朝鮮に対してだけではないと思います。

アジア全体に対し、日本は、敵対とまでは行かなくとも、決して良好な関係にあるとは言えないと思います。

この間、最悪の日韓関係にあって分かったことですが、日本が安全保障上、信頼できる国、「ホワイト国」に指定しているのは大部分欧米諸国であり、アジアの国は、韓国以外一国もなかったようです。この一事にも、日本がいかに「アジアの内の日本」になっていないかが示されていると思います。

今回、東北アジアの、戦争と敵対から平和と繁栄への時代的転換、政治的地殻変動にあって、日本が一貫して「蚊帳の外」に置かれたのも、そのためだと思います。

今日、世界はアジアの時代であり、東北アジア新時代は、その重要な環だと言うことができます。この歴史の新時代にあって、これ以上、日本がアジアの外にいることは許されません。

事実、憲法改正や安保改訂、地方・地域の再編や政界再編など、これから展開される戦後日本政治の一大転換をめぐる闘いも、東北アジアにおける新事態進展をめぐっての闘いと密接に結びついて来るのではないでしょうか。

そうした中にあって、この度私たちは、「アジアの内の日本の会」を立ち上げ、日本の闘いに少しでも寄与するため、積極的に発言していくようにしたいと存じます。

それが、ここ朝鮮に半世紀の間生きてきた者の最低の責務だと思っています。
どうかよろしくお導きくださるよう、心からお願い申し上げます。

*最後に年間会計報告があり、承認されました。

第二部 伊藤孝司氏の講演「朝鮮の『自力更生』と日朝の課題」

朝鮮の『自力更生』
皆さんに関心があるような話を少ししたいと思います。最初に、盛んに報道で出てますけれども、朝鮮の外務省が九月下旬にアメリカと対話する用意があるという指示を出しています。ここ二~三日の報道をみても、間違いなく近いうちに実務協議が行われるでしょう。この話が出たタイミングでトランプ大統領がボルトン補佐官を解任して、キム・ジョンウン委員長と会うと示唆して、年内に、次の米朝首脳会談が行われるという可能性が出てきたわけです。

 今、日朝・南北は、この米朝の動きを見て、それがどのように進んで行くか決まらない限り動かない。朝鮮側としては動かす必要はないといったことがあります。日朝は米朝の動きを見ながら、場合によっては、急速に進んでいくのではないかと私は思っているわけです。

 私の朝鮮との関わりは、九十二年から訪朝するようになって今まで四十二回(注:十月に四十三日目)、韓国の方は四十七回行っています。一回の訪朝期間が長くて三週間、平均で二週間位です。

 今から紹介する写真は、一枚を除いて、全部私が撮ったものです。これは七月に撮ったピョンヤン(平壌)市内ですが、昨年と今年を比べたら、車の通行量はそう変わっていない。数年前と比べたら、微妙に減ったのかなという位いだと思います。この朝鮮が、国連安保理それから日米韓の独自制裁によって、どの程度の影響を受けているかということは、国際社会が非常に注視しているわけですけれども、私は制裁の影響は、表面だって出ていないんじゃないかと思います。

 これは、ピョンヤンに継ぐ二番目の都市、ハムン(咸興)で撮影したものですが、良く見ると電動自転車が二台写っているんです。地方都市で、急速にこの電動自転車が普及しています。私が数えてみると、二十台に一台が電動自転車でした。これはすごい割合で電動になっているといえます。電動自転車の荷台に大きな荷物を載せて走っている人もいたりします。通勤・通学の時に非常に良く見るので、学生たちにも電動自転車は普及しています。今、スマホと携帯電話が六〇〇万台位普及しているわけですが、とくに地方都市において、交通インフラが十分でないという状況の中で電動自転車は、ピョンヤンよりもむしろ、地方都市で急速に普及するのではないかと考えています。通勤・通学で電動自転車を使うとなると、毎日、充電しなければならない。計画停電があっても、必ず、電力が供給されている時間がないと、電動自転車は使えなくなってしまうわけですから。

 ピョンヤンの中心部の一番新しいタワーマンションのリョミョン(黎明)通りだけでなく、他の高層アパート群もライトアップが続いています。電力供給のためにピョンヤンの二つの火力発電所は、フル稼働していることが、煙突の煙で分かります。制裁によって石炭の輸出ができないということもあり、その石炭で火力発電所を稼働させて安定した電力供給をしているようです。

 地方都市のインフラ整備はピョンヤンに比べたら遅れているわけですが、光ファイバー網と携帯電話の通信網がかなり整備されています。今、ピョンヤンだけでなく地方都市でも、工場や農場の科学技術普及室(コンピュータールーム)では、仕事を終えた労働者たちがピョンヤンの大学の講義を受けたりとか、専門的な技術を研究機関の情報を引っ張り出すといったことができるようになっています。地方では今では、ピョンヤンの一流大学の受験を地方にいながら、できるようになっています。以前は、ピョンヤンまで出て行ったわけですが・・・。こういうインフラ整備のように、朝鮮は科学技術の発展に重点的に力を入れた政治をしている。つまりこれを実現するには、電力が安定的に供給されなければできない。ピョンヤンでも地方都市でも、電力安定供給を前提とした社会作りをしていると思います。

 今年の四月に、ピョンヤンのテソン百貨店へ行きました。ソニーだとかフィリップスの大型テレビのモニターなどが並んでいました。他の売り場にも高級輸入品が売られていて、イタリア製の衣類、かなり高価な宝石、見たこともないような高価な食器類もありました。近年では輸入品を販売する店舗はたくさんできましたし、しゃれたデザインの店舗もあるのですが、この百貨店のように高価な輸入品を販売する店も出現しています。

 そうした商品を購入できる人がいることについて、経済学者にインタビューしました。海外派遣の労働者や医師、合弁企業の従業員といった高収入の人たちがいると。企業の独自活動で、目標を達成すれば、利益を従業員に配分できるようになった。そういったことによって、超高額なものを買うことのできる人が出現したということです。

 ピョンヤン三・二六電線工場で、通路を歩いていてたまたま見かけた労働者に話を聞きました。彼は、二〇〇二年から働いているんですが、その時から比べて給料は三倍に上がった。朝鮮新報の記事には、給料が一〇倍になった人もいるとあります。工場や協同農場でも、労働者の勤労意欲を刺激するような政策を導入したことによって、生産量が増加しているといえます。

 ピョンヤンのリユオン靴工場は、スポーツシューズの工場ですので石油原料を使わざるを得ないのですが、現在はほとんどそれを使わないで製品を作っているという話です。

 朝鮮が厳しい制裁の中で、緩やかな成長を続けているという最大の理由は、「自力更生」が着実に進んでいるからです。「自力更生」は昔の中ソ対立の時に、その両国からいろんな供与を受けていた朝鮮が、それに頼らないという「チュチェ(主体)思想」が生まれ、「自力更生」の道を模索してきたわけです。それを現在、非常に力を入れていて、いろいろなところで成果を出しています。

 五月に、ピョンヤンから車で片道七時間をかけて、フンナム(興南)にあるフンナム肥料連合企業所に取材に行きました。ここでは以前から石炭ガス化による石油を使わない化学肥料生産を前からやっています。現在、合成燃料と合成プラスチックを製造するために、石炭を原料としてメタノール製造をおこなっています。これは、この工場ではまだ本格的ではないのですが、別の工場では、本格的なメタノール製造のプラントを稼働させようとしています。朝鮮に豊富に埋蔵されている石炭を原料として、石油を使わない社会体制を築きつつあるということだと思います。

 朝鮮は今、厳しい制裁を受けていても、人々の生活は、地方都市を含めて確実に向上している。制裁の影響は出ているはずだが、決定的な打撃は受けていないという状況でしょう。こういう状況の中で、日朝交渉の最大の障害となっているのは、日本による独自制裁。この制裁を段階的にも解除しないまま、安倍首相は無条件で首脳会談をしたいと言っているわけですけれども、朝鮮の現状からして制裁をし続けていることに、どれほどの意味があるのかと思います。

日朝の課題
 ここから朝鮮取材から見た日朝の課題について説明したいと思います。

 私は一九九二年から、朝鮮でまず最初に取り組んだのは、植民地支配での被害者の取材です。朝鮮にいる広島・長崎の被爆者は、一九五九年から始まった帰国事業で渡った人たちです。日本政府は被爆者援護法によって、被爆者健康手帳を取得した外国人を含むすべての人に援護措置を実施する義務がある。現在、日本と国交のない台湾の被爆者を含めて、毎月、健康管理手当などを支給しているわけです。ところが、そういう中で唯一、例外になっているのが朝鮮にいる被爆者です

 パク・ムンスク(朴文淑)さんは、この手帳を取得しています。日本政府はパクさんに対し、法律に基づいて援護措置をおこなう義務があるにもかかわらず怠っています。敵対している国の者には援護措置をしないということなのでしょう。リ・ゲソンさん(李桂先)さんは、手帳を取得できる条件があるということがはっきりしていて、二〇〇七年に日本に行って手続きをしようとしたわけです。ところが日本政府は、実質的に入国拒否をしたために、それができずにいます。

 朝鮮には、朝鮮被爆者協会という団体があるわけですが、二〇〇七年に実施した調査によって、一九一一人確認されています。その段階で健在なのは三八二人。それから一〇年後に部分的な調査が行われて、その三八二人の内、すでに五一人が亡くなっているということが分っています。現在はさらに少なくなっているでしょう。

 朝鮮で名乗り出た日本軍によって性奴隷にされた被害者、一般的には日本軍慰安婦とか従軍慰安婦と呼んでいますが、その性奴隷にされた人は二一九人いましたが、現在はほとんどが死亡しています。パク・ヨンシム(朴英深)さんは、米軍によって中国の日本兵収容所で写真を撮影されました。一人だけお腹の大きな女性が写っていますが、ご本人です。米国の公的な機関が持っている写真で当事者が確定できているという重要なものです。

 こういう被害者取材をほとんど終えたころ、ちょうど日本政府が朝鮮に対する独自制裁を始めようとしていました。二〇〇四年に特定船舶入港禁止法案というのを検討し始めて、その時に標的にされたのが「万景峰92号」です。この法案が出た時に日本のメディアは「この船は疑惑の船だ」と盛んにキャンペーンしていました。それならば、船そのものを取材しようと考え、四日間に渡って乗船して、乗員・乗客たちと船内を取材しました。その取材によってこの船が、日本と朝鮮、そして日本で暮らしている在日朝鮮人だけでなく、韓国籍の人であるとか日本に帰化した人たちも、この船を使って親族訪問などをしていることが分かり、この船が非常に重要な日朝の架け橋になっていることを明らかにすることができたわけです。現在は制裁によって、ウォンサン(元山)の港に停留されたままになっています。

今年になってから、安倍政権は首脳会談を求めると言いながら逆に朝鮮への「制裁の強化」と言えるようなことを始めています。その一つは、八月一〇日に朝鮮から羽田空港に戻った在日朝鮮人が、親族からもらった土産を一七個持って入国しようとしたのですが、一〇個までは良いが、それ以上のものを全部没収しました。

昨年、関空において、神戸の朝鮮高校の二〇数人が土産物を没収されるという事件があり、非常に大きく報道されました。それを契機に「一〇個」という枠を設けたのです。けれど今までは、土産物を税関で没収されずに日本に持ち込むことはかなりできていたのです。羽田の没収事件で、一〇個を超えたものは没収するということを明確にしたわけです

一〇月一日からの幼稚園・保育園の無償化が実施されます。これは消費税増税による財源の一部を使うということで実施されるわけですけれども、朝鮮幼稚園と外国人学校の幼稚園は無償化の対象からから外すというのです。今、朝鮮幼稚園は四〇校、外国人学校の幼稚園は四八校あります。こうした学校は全体からすると〇・一五%しかないんです。ですから、予算的なことから言えば、外国系の学校を外すということには何の意味もないんです。これはまさしく朝鮮高校の無償化除外と同じように、民族差別の典型的な政策だといって良いでしょう。

さらに今年の二月からは、財務省が嫌がらせを始めました。中国・ロシアには朝鮮ビザを発給する朝鮮大使館・領事館がありますが、ビザ代の支払いは外国為替法に基づく許可申請が必要だと財務省が言い出したのです。朝鮮に対する制裁である輸出入の禁止は、二〇〇六年以降はゼロにしてしまっている。にもかかわらず今年になってから、朝鮮ビザを取得しなければならない日本人に対して、こうした措置を始めたんです。これは朝鮮に対する新たな制裁として、無理矢理に考え出したものだといって良いでしょう。

話を元に戻しますと、二〇〇四年一〇月に小泉訪朝の手土産として日本政府が二五万トンの食糧支援をするとなりました。その時のメディアは、支援しても横流しが行われるというキャンペーンをしました。朝鮮への支援というのは、日本政府が直接するのではなく、世界食糧計画(WFP)を通して支援しているわけです。日本政府が送った穀物の袋には、日の丸とWFPのマークが入っています。この支援が行われる時に合わせて、横流しがあるかどうかの取材に行きました。WFPの平壌事務所の所長は、支援物資の横流しをその国が意図的にしているかどうかが問題であり、朝鮮ではそのようなことは絶対にない。何万トン、何十万トンの食糧を支援するわけですから、ごく一部を猫ばばする人がいる国はどこにもある。しかし、そんなことは問題ではない。国家がそれをやろうとするかどうかが問題だと言っていました。これをテレビで放送したら、いっぺんに横流し報道はなくなりました。

結局、この時の二五万トンは半分しか支援されなかった。その後、日本政府は拉致問題で国内状況が悪化したという理由で、送らないまま現在に至っています。ですから、残りをどうするのかという話は、いずれ出くると思います。

次の話です。日本は朝鮮植民地支配の中で、膨大な文化財を日本に運び込みました。韓国文化財庁の調査によると三万点以上あるということです。韓国については、日韓条約の文化財協定において、朝鮮半島の南側からのもので国有の物、国家が管理している物については返還するということに至ったわけです。しかし実際には、はっきり言うと返還されたのはクズばかりで、韓国側が非常に重要だという物は返さなかったんです。東京や地方の国立博物館に行くと、朝鮮半島南側からの文化財と表示された物はいくらでも残っている。東京国立博物館の前庭や東洋館の中には、朝鮮半島の北側から持って来た文化財があります。北側からの文化財は、日朝国交正常化交渉の中で返還は決まるわけです。

靖国神社の境内には「北関大捷碑」がありました。豊臣秀吉が四〇〇年前に侵略をして、その一〇〇年後に秀吉軍を部分的に破ったということを記念して建てられた石碑です。これを日露戦争で朝鮮に侵略した日本軍が持ち帰って、戦後は靖国神社の藪の中に隠すように置かれていました。靖国神社も日本軍が敗れたという石碑は、人目のつかないところに置いたわけです。この石碑を韓国の歴史学者が見つけ出し、日本と韓国と朝鮮の仏教者が共同で返そうという動きになりました。南北関係が非常に良かった時期ということもあって、とりあえず日本から韓国に渡して、韓国から軍事境界線を越えて朝鮮に運ぼうということになったわけです。靖国神社で韓国への引き渡し式典があり、飛行機でソウルに運ばれてキョンブククン(景福宮)で韓国政府による盛大な歓迎式典が行われました。翌年二〇〇六の三月一日、ケソン(開城)の高麗博物館の中庭で南から北への引き渡し式典が行われました。ここで取材を終えるわけにはいかないので、三年後にキルジュへ戻った碑の写真を撮りに行きました。

これは民間における画期的な出来事だったのです。日本のしかも靖国神社にあった石碑が朝鮮に戻って行ったんです。このことを日本政府は生かせなかった。当時、日朝は何の対話もない状況でしたから、この文化財の返還を糸口として日朝のやり取りは十分できたわけです。

 二〇〇二年のピョンヤン宣言においていろいろ決めたわけですが、なかなか具体化ができないという中で、二〇一四年五月に日朝ストックホルム合意が行われました。その中で日本が朝鮮に要請したのは、すべての日本人の調査で、①敗戦後、朝鮮半島北側で死亡した日本人の遺骨及びその墓地、②残留日本人、③日本人配偶者、④拉致被害者。その調査のために、朝鮮側は特別調査委員会を設置したわけです。

 この日本人調査において「よど号」の六人に対しても調査が行われるだろうという予測がありました。私はそれまで、頻繁に彼らと飯を食ったり簡単な取材をしたりしてたんですけど、本格的取材はできなかった。ストックホルム合意で日本政府との話し合いがおこなわれる可能性が出てきたという状況の中で、日本人村に一週間滞在して、六人全員に時間をかけてインタビューをしました。取材の中心はやはり、グループの中の三人が欧州拉致事件に関与しているということで国際指名手配されているので、このことについて納得できるまで聞こうということで、かなりしつこく聞きました。結果として、この三人には犯罪として問われるような拉致被害者との関わりはない、証拠といえるものがないまま逮捕状が出されているということが分ったわけです。この取材はテレビで放送しましたし、週刊金曜日にも8ページに渡って書きました。特別調査委員会は、よど号グループに対する調査を実施しました。

そして先ほどの四項目を含めて、調査報告書を作ったんです。ところが日本政府はその中の一つの「拉致被害者及び行方不明者の調査結果を受け入れることができない」という理由で、すべての報告書の受け取りを拒否しました。

「拉致被害者及び行方不明者の報告内容は、生存する拉致被害者は二人いるけれども、それ以外はすべて死亡しているという内容だったわけです。その二人というのは神戸のラーメン屋で働いていた人で、拉致被害者として認定されている田中実さんと、拉致の可能性を否定できないという金田竜光さんです。この二人は現在、ピョンヤンで家族と一緒に生活していて帰国を望んでいないそうです。

 つまり安倍首相が拉致問題を解決すると言いながら、この二人のことについて日本政府は何の表明もしていないんです。この二人への対応を決めて明らかにしない限り、拉致問題の進展はあり得ないということがいえます。

 一九四五年八月九日に、ソ連軍が中国東北地方と朝鮮の北部に攻撃を開始し、たくさん日本人が南へ南へと避難しました。三八度線でソ連とアメリカが分割統治を決めて、その中で北側にいた日本人たちが足止めをされて、約四万人がその年から翌年にかけて死亡してしまったわけです。その人たちが朝鮮各地の七一箇所に埋葬されているということが厚生労働省の調査で分っています。引き揚げ時に一万三千人分の遺骨が日本に持ち帰られたので、それ以外は現在も残っているわけです。

 現在は、集団埋葬地の上がほとんどトウモロコシなどの畑になっているんです。時々、農作業をしていたりすると日本人の遺骨が出て来るんです。地元の人たちが遺骨を集めて仮埋葬してくださっているんです。こういう日本人埋葬地は、放っておいたら道路建設や果樹園などの大規模開発によって、遺骨収容ができなくなることは明らかなわけです。

その状況は日本政府も分っているらしくて、二〇一五年から日本政府がこの問題で外務省職員を派遣する費用として、一番多い年で一〇八万円を計上しているということが分っています。この集団埋葬地への墓参は二つの民間団体が、一二回で約百人の遺族と関係者を送りました。一番最初は二〇一二年で、集団埋葬地を掘ってみるということをやり、日本人の僧侶が法要をしました。日本のメディアは毎回、二〇人位の記者団を送り、最初の頃は墓参の様子を報道したんですが、途中から取材に行っても墓参を報道しなかったんです。何故かというと、普段は映像を撮ることが絶対に許されない朝鮮の地方都市を自由に撮影できたんです。それを目的に、日本のメディアは一二回のすべてに同行取材をしました。そういったことの積み重ねが、ストックホルム合意の下地を作ったわけです。

 特別調査委員会は残留日本人調査もしましたが、調査段階では八人の方が健在だったのですが、現在は荒井琉璃子さん一人しか生存していないんです。この方は、ソ連の攻撃を受けて、家族で朝鮮北部から南へ逃げる途中のハムン(咸興)で列車から降ろされました。そこに待機している時に、家族にはぐれてしまって朝鮮人に育てられました。

私は二〇一七年から、ハムンに七回続けて取材に行っています。なんとピョンヤンではなくハムンに「ハムン虹の会」という日本人の親睦団体が作られているんです。朝鮮に日本人の団体が作られているということに本当に驚きました。

 一九五九年から始まった在日朝鮮人の帰国事業の中で、日本人の配偶者とともに(ほとんどが女性ですが)一八三一人が朝鮮に渡っています。その内の四三人が三回に分けて、日本と朝鮮の事業として「里帰り」が行われました。しかし、日本政府は拉致問題によって日本国内の世論が悪化したという理由をもって、四回目の「里帰り」を実施寸前に中断してしまったのです。

 日本人妻の中本愛子さんに、私は昨年二月に手紙を見せてもらいました。それは五一年前に日本の妹さんから届いた手紙なんですが、手紙の最後に住所が記されていました。転居していたために簡単には見つからなかったんですが、何とか妹さんを探し出して朝鮮にお連れし、五八年ぶりの再会を実現させたわけです。中本さんは、特例的な形で肉親と再会することになりましたが、ほとんどの日本人妻の人は日本の肉親と連絡が切れてしまっています。それは、日本国内の朝鮮に対する世論の悪化というものが背景にあるわけですが、両親が亡くなってしまって兄弟しかいないという状況になって、兄弟が関係を絶っているということが多いわけです。

 日本人妻の人たちは皆、日本に行って両親のお墓参りをしたいと強くおっしゃっているんです。もし日本政府が、この人たちの調査報告書を受け取っていれば、私はこの人たちの四回目の「里帰りは実現したのではないかと思います。結局、よど号グループのことも含めて、拉致問題に固執する安倍政権によって、朝鮮に暮らす日本人たちが切り捨てられてしまっていることだと思います。

 最後に、政府と民間が何をするべきかということですが、一つは国交正常化交渉で決まることになっている日本による朝鮮植民地支配に対する朝鮮への賠償と被害者個人への保障の問題、そして朝鮮半島北側から持ち出した文化財の返還。これは国交正常化交渉の中でないと最終的に決着つけるのは難しいという課題です。

 現在、日韓の関係が悪化したのは徴用工問題、つまり被害者個人への補償の問題について、日韓条約という非常な不平等条約をもって決着したために今の事態が起きているわけです。私は、朝日国交正常化交渉担当大使のソン・イルホ(宋日昊)さんと六回会っています。日朝ピョンヤン宣言の中に、同じような日韓条約と同じような文言があったので、そのことについてソン・イルホさんに直接聞きました。人権蹂躙された被害者とその遺族への補償を要求することは、ピョンヤン宣言に反するものではないと明確に述べているのです。国家賠償と被害者への保障は別であるということです。

 このように国家間でしか決められない課題と、もう一つは人道的な問題です。先ほど紹介したように、日本人埋葬地への墓参と遺骨の収容、これは早くやらないと時間がない。実は墓参事業は一二回行われたと言いましたが、これは民間でやってきたのですが民間で続けるのは難しい。

 そして日本人妻の里帰り事業は中断している状況なので、四回目を再開するということは日朝政府間で合意ができれば比較的簡単に選択できる非常にハードルが低いわけなんです。ですから、他に墓参の再開と、朝鮮で暮らす広島・長崎での被爆者への医療支援もあります。今月の二八日から日本医師会の医師が訪朝し、朝鮮への医療支援を協議するということです。日本政府の輸出禁止という制裁の中で人道支援は別となっていますから、やろうと思えばできます。実際に朝鮮へ粉ミルクを送っている団体もあります。こうした人道的な問題については、政府や民間で容易にできるのではないかと考えています。

 最後に、皆さんはよど号グループの帰国支援ということで集まっているのですが、やはり日朝関係が改善しなければ、よど号問題も進展しないという状況があります。日朝関係改善をさせるための活動にも取り組んでいただけたらと思っています。

 何か質問などあれば、お願いします。

(T氏の質問)
 今、朝米関係が改善の方向で話し合いが始まっているように言われていますが、具体的に何回も取材されていて、アメリカの目論見と朝鮮側の目論見は当然違うわけですが、われわれはよど号の帰国の問題と関わってきてますし、どのように進展していくのか。また、朝鮮側はどういう風に、たとえばアメリカが中国的な改革・開放の企図を持っているとすれば、朝鮮側はそれをどのように乗り越えていこうとしているのかについて、少し、お話ください。

(伊藤氏の回答)
 私は米朝に関する取材はそれほど出来ていないんです。つまり、なぜ、朝鮮はアメリカと敵対関係になって、核ミサイルを使わざるを得なくなったのかについては、本に書いています。しかし、米朝の今後の展開については、外務省のアメリカ担当に取材したいとインタビューを申し込んだんですが、それが全然出来なくて、現地での取材でも分らないところがあります。

 私は、去年のシンガポール、そして今年のベトナムがあって、話し合いは破綻したとなっているわけですが、その時、ボルトンがいて話し合いをぶち壊したと言われているので、多分、そうではないかなと。今回は、トランプがそこを解決したのではないか。その過程で色々あったわけですが、ハノイの話し合いが無駄だったということではないと思うんです。

 いろいろ波はあるけれども、お互いにその過程のなかで、相手の出方・落としどころと言うか双方の考えていることについて、どのくらいの期間で実現するのかということは、それはもう何十年という見方もあるし、すんなり出来るという見方もあるわけです。そこら辺をどういうような行程でやっていくのか。今は探っている段階だと思います。ですから、今度の首脳会談が実現したら、今までの三回(と言って良いと思うんですが)の首脳会談を踏まえて、今年はかなり大きな前進があるのではないか、と期待というか、そう見ているんです。お答えになっていないですね。

会場から 小沢遼子さんの発言
 皆さんは、もう何年も「よど号問題」に取り組んでいらしたと思います。あの頃、いろんな運動があって、よく喧嘩していましたから、私は絶対に「よど号」には近寄らない、知らないとしていました。

 ただ、「宿命」という本(この本は嫌われている見たいですが)を読んだ時に、すごい衝撃を受けて、彼らがどんな思いで行ったのか、私にとっては全く逆の効果がありました。あんなおっちょこちょいをしてしまう若い人が、隣の国へ飛行機を分捕ってでも飛んで行こうと思ったのは、日本でゴトゴト内ゲバしているよりよっぽど良いじゃないかという気分がもともと私の中にあったんです。

 ・・・いろいろ考えると「あれは間違っている」「嫌いだ」ということよりも、そこから膨らむ沢山のことが、私にとっては、ひたすら「よど号」の人たちへの自分でも気付かなかった友情や愛情みたいなものが、どんどん、どんどん、行くたんびに強くなるんです。
 そして今度行ったら、あまりにも変わっていてピョンヤンの街が綺麗になっていてビックリしました。でも、「帰って来るのか。ぶち込まれるのか」いろいろ考えて、私はぶち込まれるのだけはいやなんです。だって一〇年も入れられたら、死んじゃうでしょ。それだったら向こうにいた方が良いと思ったり、・・・そういうことは皆さんが考えることで、私が考えることではではないと思うから、余計なことは言いませんけれども、とにかく彼らに、改めてできる限りの友情を捧げたいと思っております。以上です。

山中氏より閉会の挨拶
 今後の予定ですが、一一月の下旬から一二月にかけて、二回目の「かりの会帰国支援センター」の訪朝を考えています。来年はよど号五〇年です。今日の訪朝報告にあったことを踏まえて、来年以降どうするのかを改めて報告できる訪朝にしていきたいと思います。今日はお忙しい中、長時間ありがとうございました。

 その後、一一名の方が二次会に参加。初めての方もおり、大いに盛り上がってお開きとなりました。