アジアの内の日本 2020年4月号

「コロナ戦争」の明暗を分けたもの-「内」第一か「外」第一か

若林盛亮 2020年4月20日

4月16日、安倍首相は全国47都道府県に緊急事態宣言を公表、20日現在、日本の新型コロナ感染者は1万1,518人と伝えられるが、増加の勢いの止まるメドはない。

「不安を煽るな」と言ってきた首相、政治家が今頃になってマスク姿で「医療崩壊の危機」だと国民を不安のどん底に陥れている。古希を過ぎた故郷の同窓からは身近な危険への不安の声が絶えない。

「老人には危険だが、健康体はすぐ回復するのだ」とタカをくくり初動を怠った米国は今や世界最大、最悪のコロナ惨劇の泥沼国家になった。EU主要国では今なお感染者、死者拡大一途、コロナ禍終息のメドが立たない青息吐息の状態だ。米国、EU、日本といった最先端医療技術を誇ったはずの先進国が新型コロナウィルス防疫においては最後進国となっている。

敗因は明確、「初動の遅れ、後手、後手にまわったこと」にある。

他方でアジア諸国、中でも中国や台湾、南北朝鮮は、「コロナ禍は国難」と位置づけ先手、先手の初動のスピード感で対処した。国境や感染地域の封鎖の徹底、あるいは国境は閉じず検査の徹底化による正確な感染者の把握に基づく隔離、治療の迅速性、国民への情報開示の徹底性で、コロナ封じ込めにおいて世界最先端を示しつつある。

韓国ではコロナ禍渦中の総選挙が完璧な防疫体制の下で整然と行われ、66.2%という同国史上二番目の投票率という国民的熱気と政権与党の圧勝という形で、文在寅政権の「コロナ戦争」勝利を世界に見せた。

まだ即断は許されないが、アジアは先手必勝の好例を、欧米は後手必敗の悪例を示していると思う。

「強権が自由に勝った」-「コロナ戦争」でのアジアの成功、欧米の失敗をこのように評価するのが一般的だ。しかし「コロナ戦争」で明暗を分けた要因、それは果たして「強権か自由か」という問題なのか? そんな皮相的な問題ではないと思う。

欧米や日本の敗因、それは“国民の生命と安全という国の「内」は二の次、「外」優先”、このような国の体質にあると見るべきではないだろうか。

米国や日本、EU諸国は、植民地獲得競争の古き帝国主義の時代に始まり「多国籍資本には国、民族、国境は不要」を具現したグローバリズムの時代に至る覇権競争の世界を主導してきた「先進国」だった。かつての「帝国主義列強諸国」は、今日なおも資本の「自由な」世界的拡大、いわば「外へ外へ」を最優先する海外権益第一の経済、国の「外」に覇を唱えるための政治を基本とする国々だ。他方で産業空洞化や雇用の喪失、医療体制や社会保障の衰退など国民経済破壊、格差と貧困の拡大に象徴されるように、「内」には犠牲を強いてきた国々だ。

「コロナ戦争」敗因の本質、それは「外」第一、「内」二の次という「国のあり方」にあるのではないのか? 

他方、かつて植民地、半植民地の悲哀の歴史を知るアジア諸国は、国の独立や主権の貴重さを知り、民族や共同体、「内」を大切にする国々だ。国民の生命擁護を最優先し国民生活・国民経済打撃への補償を行い、「コロナ戦争」勝利者と国民と世界が認める韓国・文在寅大統領は、南北朝鮮を「生命共同体」と称した人物だ。

「内」第一の国は先手必勝、「外」優先の国は後手必敗、これが今回の「コロナ戦争」を通じて明らかになった一つの教訓ではないだろうか? 

私たちは、こうした側面からも「アジアの内の日本」の意味を考えていこうと思う。

自らの共同体を守るためー韓国のコロナウイルス対策

赤木志郎 2020年4月20日

全世界が新型コロナウイルス撲滅をめざし必死に戦っている。見えない敵との戦争ですでに16万余の人が亡くなった。感染者は230万を突破している。この戦いにおいて韓国の対策が注目されている。WHO会議で文大統領の報告が要請され、韓国に検査キットの援助を申し込んでいる国も多い。「医療ガバナンス研究所」理事長の上昌広氏も、ウイルスを抑制するために重要となる最初の措置が検査であると指摘し、「韓国の対応があらゆる国にとって、良い手本となる」と述べている。

韓国では当初、中国との交通を遮断しなかったためと、とくに新天地という宗教団体が祈祷の催しを開催して全国に感染が広がった。韓国政府は高齢者に感染させ重症化させるリスクの高い若い世代の感染拡大を阻止するため早期に発見し、隔離、治療に専念している。検査方法もドライブスルーやウォークスルーの方法や638カ所の発熱外来患者用の選別診療所の設置を活用し、新しい検査装置を開発し、40万人以上の検査をおこなった。そして交通カード、クレジットカードを活用し10分で移動追跡を可能にし、感染者を発見していった。そして、軽症者は病院ではなく生活治療センターに入所させ、重症患者は感染症指定病院へと区別し、治療を効果的におこなっていった。この結果、致死率1,4%(3月21日)に抑えている。病院のベッド数も充分であり、都市封鎖をすることなく外出自粛で感染拡大を抑えている。

一旦は感染者が拡大したが、それを抑えることに成功した経験は、世界各国が学ぶことができると思う。

成功の要因は、①サーズ、マーズの教訓から感染症にたいする対策を予め準備していたこと、②政府が先手、先手と迅速に対策を講じ、検査に1兆円など国費で財政的に保障し、実行していったこと、③検査キットの開発など民間の力を発揮できるようにしたこと、④情報公開を徹底的におこない人々が事態を把握し対策を理解したこと、④生活費や投資への手厚い補償など挙げることができると思う。これらの要因が感染拡大を阻止しえ、人々の安心感を与えているという。

ここで、韓国という共同体を守るために国と国民が一体となったことが一番大きいのではないかと思う。自分の共同体を守ること、これが基本スローガンとなっている。いわば国難にたいし政府と全国民が一丸となって戦うという姿勢だ。感染症対策を予め講じたこと、迅速な対応、民間企業の検査キットの開発奨励、情報公開、手厚い補償なども、自らの共同体を守ろうという意識が共有されていたからできたといえる、

安倍政権が検査を大々的におこわず感染症の拡大が為すがままになっているのは、日本という共同体を守ろうという自覚が安倍政権にはまったくないからだと思う。

新型感染症対策で「国」の役割が決定的

若林盛亮 2020年4月5日

今回の新型コロナウイルス禍で明らかになったこと、それは、「国」の役割が決定的だということではないかと思う。

言い換えれば、「コロナ」に限らず、これまでの治療法が無力な新型の感染症に対して、「国」の役割を否定したグローバリズム・新自由主義がいかに有害かが証明されたということではないだろうか。

国境がなく、「小さな政府」で公共の医療・福祉を切り捨てた欧米の惨状は、そのことを示していると思う。

新型感染症対策で「国」の役割が決定的なのは、単に国境封鎖や都市封鎖、外出禁止、営業禁止などで感染の拡大を抑えることができるだけではない。何よりも、大々的で積極的な徹底した検査と隔離、集中治療により、最大限漏れなく人々が自分自身の免疫力で病を完治することができるようになるところにあるのではないか。

有効な治療薬がなく、ワクチンを新しくつくることも困難な新型の感染症は、人々が自分自身の免疫力で病を克服できるようにするのが治療の基本であり、そのためには、それを可能にする病院など施設や、今回の「人工呼吸器」など各種医療器具、等々を「国」が保障するのが決定的になる。

また、治療薬やワクチンを開発しつくるためにも、それを効率や採算第一の製薬会社に任せることはできず、効率や採算を度外視できる「国」の研究機関の力が不可欠になるのではないだろうか。

新型感染症への対策は、「国」の役割が決定的に高まる、来るべき新しい時代を切り開く上でも、大きな意味を持ってくるのではないかと思う。

ジレンマをふっきり「国と個人」のあり方を考えるべき時

魚本公博 2020年4月5日

この間、コロナ禍で国の役割の重要性が再認識されつつある。

こうした中、リベラルな考え方をする人の中に、一種の葛藤が生まれているようである。

朝日新聞(3月20日)に社会政治学者の堀内洋之介さんが「私権制限どこまで許される」という記事で「公益衛生の観点に立てば、公益のために私権を制限する必要があるのは明らか」としつつ、世界各国で「感染拡大を防ぐ政策の『有効性』と個人の自由という『普遍性』の、せめぎあいが起きていると述べれば、同紙3月26日の「論壇時評」欄では津田大介さんが「安心と自由 板挟みの中で」と題する文章で「安心と自由のジレンマ」と言う具合である。このような論調は他にも多く見かける。すなわち、コロナ禍の中で、国家が人々の行動を統制しなければ感染拡大を防止し国民の命を守ることはできないのは明らになっており、その有効性は認めつつも、個人の自由が損なわれるという危惧もぬぐい去れないということである。

確かに、安倍政権がこれを機会に非常事態法など私権制限体制を敷くことへの危惧があるのは事実だ。しかし、この問題は、今の政権がどうしたこうしたとは関係なく、根元的な「国と個人の関係」が問われているということではないのだろうか。

そのような立場に立てば。「せめぎあい」、「ジレンマ」などと悩む必要などなく、そうしたジレンマをふっきって「国と個人」の関係がどうあるべきかについて深め、国民主体の政治をどう実現すべきかを考えるべき時ではないか。津田大介さんが言うように「日本政治の真価が問われるのは、まさに、これからである」というのも、そういう意味で受け取るべきだと思う。

検査は日本でタブー?

森順子 2020年4月5日

「検査とマスクは、コロナと闘うための武器だ。」という教訓のもとに、世界各国では感染拡大阻止のため積極的な検査拡大の動きが高まった。WHOでも「一に検査、二に検査、三に検査」と、検査体制の強化の必要性を強調した。

検査体制の遅れを批判されていた米国でさえ全国民が無料で検査を受けられるようにした。

ところが、日本の検査数は少なすぎる。23日時点ではアイスランドの227分の1、韓国の52分の1と、先進国最低のレベル。なぜ日本は検査を重要視しないのか。検査できないからか? 安倍政権はしたくないからか? 

「新型コロナは病院に検査に行ってうつされる可能性が高い、病院に行ってはいけない」と、新聞の週刊誌広告が「警告」しているのをみて、後者だと察しがいった。

それは、五輪開催のためには、「日本は安全」でなければならない。それには、感染者数云々、検査数云々はタブーだったからだ。だが、一年延期となり感染者数を抑える必要がなくなった。急激に増えた感染者数を延期が決まった途端、公表したことに現れているのではないか。やはり、五輪開催のために検査をせず、またコロナ対策に真正面から取り組んでいなかったと考えざるを得ない。

国民の命と安全より、五輪開催と経済しか眼中になり安倍政権は、検査をさせず感染者数を抑え、その結果、さらにコロナウイルスは広がり本来なら守られる人々の生命をどんどん危険にさらし続けていったということだ。

安倍首相は28日の記者会見で、コロナ対策に関しては新薬の開発が進んでいる、大丈夫だという希望を持たせる発言をしたが、いつになるのか。それまでどうするのか。

結局、今は薬もない、隔離もできない、自己責任と自己判断のもとで自分の免疫力で直すしかないということだ。それは、若い人、体の強い人、体力のある人、そして金のある人だけは生き残れる可能性があるということになる。国民を大事にしない日本のコロナ対策、まさに日本でのコロナウイルスとの闘いは、弱肉強食そのものだ。日本が世界で一番危険な国になってしまうのではないか。いま、私はとても心配している。