「1967年の私」は? -「遠い記憶」の蘇った電話取材

若林盛亮

10月初旬、ネットニュース配信社BuzzFeed Japanから電話取材を受けた。テーマは私の「裸のラリーズ」体験。

記者の細部に渡る具体的な質問を受けながら、バンド結成に至る当時の事々が「遠い記憶」の闇からひとつ、ふたつと蘇ってきた。「当時」、つまり「1967年の秋」、水谷孝、中村武志らとの出会いが「ラリーズ」を生むのだが、直前に10・8羽田闘争、「山崎博昭の死」という衝撃的な出来事があった。

この「10・8(ジュッパチ)の衝撃」は、社会に向かって行動を起こすべし! と私に命じていた。そんな時期に出会ったのが水谷君らであった。ものの本によると水谷君は激しい自己批判を迫って同志社軽音楽部をやめたというが、おそらくこの時期のことだろう。「10・8」を契機に噴出した3人のたぎるマグマが化学反応を起こして生まれたバンド、それが「日本の音楽シーンを革命する」盟約バンド、「裸のラリーズ」だと私は思っている。

しかし「10・8」以前の私は「出口なし」の状態にあった。ジャズ喫茶「しあんくれーる」が居場所となっていた。ドアを開けるとジャズの洪水、そしていろんな「出会い」。

記者の質問に、「しあんくれーる」に通っていたという「二十歳の原点」の高野悦子さんに会ったことがあるか? とあった。高野さんは記憶にないが、同じ立命館大学文学部に通う小説家志望の「詩人」の記憶が蘇った。その「詩人」が手作りの詩集を出していてそれにイラストを描いてやったりしていた。詩の世界はよくわからなかったが「イメージを言語化する」妙味を学んだ気がする。「文学部クラスの学生は出版社に就職することくらいしか考えていない、大学生活には幻滅だ」と言う彼女に私は「ドロップアウトしてみたら」? とドラッグを渡した。それが小説家志望の「詩人」の人生によかったのかどうか・・・。

ベトナム戦争激化の一方で、高度成長、万博、昭和元禄へとひたすら向かう1967年の「明るい平和な日本」に対して、世間の眼には「自堕落」と映る形で抵抗することしかできなかった。それが「10・8」以前の私だった。

そんな私が「10・8」に出会い、「裸のラリーズ」で一歩前に踏み出し、「よど号」で朝鮮に飛翔した。その結果として今日の私がある。
人生転換期渦中の「1967年の私」、それが改めて蘇った電話取材だった。