どうしてハイジャックまで思い詰めてしまったのか

H

よど号のみなさま、はじめまして。ライターをしていますHと申します。年齢は30代前半なので、よど号事件は歴史上の出来事という感覚です。

みなさまが生まれ育った時代と、私が生まれ育った時代はまったく違うと思います。でもよど号事件や学生運動を考えても理解が難しいことがあります。

「どうしてそこまで思い詰めてしまったのか?」
ということです。みなさまは大学まで進学できる家庭で育っているので、ある程度は恵まれた環境だったかと思います。安保闘争やベトナム戦争など、内外の問題や矛盾が吹き出していたとはいえ、どうしてハイジャックを起こすほど思い詰めてしまったのかが理解できないのです。これは、連合赤軍や日本赤軍、連続企業爆破事件などにも通じる疑問です。問題や矛盾に対して、武装闘争以外の手段で解決する策はなかったのでしょうか。

こういう言い方は好ましくないかもしれませんが、これらの問題を見て見ぬ振りをしても、みなさまには直接影響はなかったはずです。それなのに何故?と疑問に突き当たります。

激動の時代に生まれ育ってみなさまと、平和の時代に生まれ育った私の世代とのジェネレーションギャップなのでしょうか。

Hさんへのお返事 小西隆裕

Hさんが、私たちがなぜそこまで思い詰めたのか分からないというのは、分かるような気がします。なぜなら、時代が今とは違うと思うからです。

あの頃は、大学を退学になっても、場合によっては、命を失うことになっても、いいと思う状況があったということです。もちろん、誰もが皆そう思ったと言うことではなく、その中の何人かがそう思っても不思議ではない状況だったということです。

すなわち、何か閉塞感がある中、ことを起こせば時代が動くという予兆というか展望を感じさせるものがあったということです。だから私にとって、革命は悲壮なものではなく、夢と言うか、生き甲斐、最高の生き方といったようなものでした。

もちろん、革命の道に立てば、飯が食えず、ドブ板の横でのたれ死にすることだってあるかもしれないし、撃たれて死ぬことだってあり得るでしょう。監獄で一生過ごすことになるかも知れません。私自身、そんなことも考えました。しかし、革命の道はそれにも増して生き甲斐のあるものに思えたのです。

私の場合、一番思い詰めたというか、深刻に考えたのは、赤軍派に入る時でした。なにしろ赤軍派は、銃と爆弾でしたから、死ぬ覚悟をすることなしに入ることができませんでした。と言えば、革命を志した時、死は覚悟したのではなかったのかと言われるかもしれません。確かにそうですが、そこには何というか時間的余裕のようなものがありました。しかし、今度はそれが目の前に突きつけられたと言うことです。

待ったなし。それでかなり悩みました。労働者の中に入るとか、いろいろやってみたいことがあったのです。そうした中、決心が付いたのは、ここで死を怖れて踏み切らなかったら、自分がダメになり、結局、革命を続けられなくなると思ったからです。それなら生きていても仕方がないではありませんか。

もちろん、その前に、赤軍派の路線が正しいか否かというのがありました。しかし、正直言って、当時の私には、その判断は付きませんでした。ただ、他の党派の路線では、当時の行き詰まった状況を切り開けないということだけは明らかだと思えました。それで、分からないからといって、止めたらダメだ。やれば、総括もできるではないか。といったところで赤軍派を選んだというのが本当のところです。

HJは、実を言って、最初あまり気が進みませんでした。当時、70年安保闘争の負けが明確になり、赤軍派の闘いも、首相官邸占拠を目指した大菩薩峠での軍事訓練が54名一網打尽に合うなど、失敗に継ぐ失敗で、私は労働者の中に深く入って、闘いを建て直さねばと思っていました。そんな訳で、自分が外国に行くなど、念頭にもありませんでした。
その私がHJで朝鮮に行くようになったのです。そこで思い直し、私が考えたのは、HJも一つの闘争だ、これを成功させれば、皆が奮い立ち、組織の建て直しのために意味があるだろう、ということと、朝鮮は日本の政府とマスコミから一番悪く言われている国だ、ならば、われわれにとってはよい国かも知れない、だから何とかなるだろうということでした。

もちろん、それ以外に、未知の世界に飛び込んでみたいという好奇心があったのは事実です。それでやる気になった訳ですが、それが、50年近い朝鮮滞在になるとは、当然のことながら、夢にも思っていませんでした。あくまで「何とかなる」と思っていたのです。
だから、客観的に見れば、「何と考えが浅い」「理解できない」となるのでしょうが、なぜか私には、今、「後悔」の二文字は全くないのです。「総括」はあっても、「後悔」はありません。それもやはり、自分なりに決心し、自分で決めたことだからだと思っています。

Hさんへのお返事 若林盛亮

Hさんの疑問は「どうしてそこまで思い詰めてしまったのか?」に尽きると思います。

「これらの問題(ベトナムと戦争や安保闘争)を見て見ぬ振りをしても、みなさまには直接影響はでなかったはず」と貴方は仰いましたが、実は「見て見ぬ振りをする」ということが、当時の私たちにとって大きな問題だったのです。

学生運動を始めた頃、母はよく「何もお前がやらなくても他にやる人はいっぱいいるやろ」と言いましたが、それこそ受け入れがたい考え方でした。「見て見ぬ振りをする」ということがどうしても許せなかった、そういう生き方はしたくなかったということだと思います。

吉野源三郎「君たちはどう生きるべきか」がいま人気と聞いています。私たちがぶつかった根本問題とはまさに「人間いかに生きるべきか」ということだったと思います。

結論を言えば、人間として生きるうえで「私は学生運動に救われた」といまも思っています。

私の場合、紆余曲折を経たので、学生運動、よど号ハイジャックに至るまでの経緯を現象的にたどれば、わかりやすいかと思います。

私は小中学校時代まではいわゆる優等生でした。よく勉強してりっぱな大学に入って、りっぱな仕事に就けば立派な人間になれる、と単純に考えていました。高校2年の終わり頃、進路が問われるようになって、自分の行きたい大学、学部は? いったい何を学びたいのか? 何のために大学に行くのか? 出世のため? 学問探究のため? どう考えても答えが出てこなかった。自分がいままで何も考えてこなかったことに、愕然としました。

そんな時、「抱きしめたい」あのビートルズの曲が私の脳天を直撃したのです。自分で作詞作曲、マッシュルームカットという独自のスタイルも自分式というビートルズに、ロックが自己表現の武器だということを教えられたのかもしれません。以来、床屋に行かず長髪、それを見とがめた体育の教師に「女の子はあっちへ行け」と言われ、「ようし、ならあっちへ行ってやる」と反抗心がむくむくと沸いてきたのです。

そんな頃、ビートルズを介して知り合った一学年下の進学校でもない高校に通う女子高生に「これ読んでみないと」とある本(ヴォーボワールの「他人の血」)を渡されたのです。ところがさっぱり理解不能、面白くなくて途中で放棄、返却したのです。いまから思うとこれが私にとっては自分を見つめ直すきっかけだったのでは? 進学校でもない高校の一学年下の女子高生の愛読書が読めない「優等生」っていったい何なんだ? このあたりから「優等生からのドロップアウト」に拍車がかかったと思います。

大学(同志社)に入って以降も、ドロップアウト状態が続きました。立命近くのジャズ喫茶「しあんくれ~る」が居場所になり、いろんな出会いも経験し、ドラッグも覚えました。心境的にはけっこう苦しく自堕落的ではあった時期ですが、いま思えばけっして無駄な体験ではなかったと思います。踏み出すべき次の一歩を求めていたのは事実です。

そんな時期、私に衝撃を与えたのが、世に言う1967年「10・8闘争」での「山崎博昭君の死」でした。社会に真っ向勝負を挑む学生運動が神々しくさえ見えたのです。「彼らは命がけでやっている」、社会に背を向けているだけの自分はいったい何なんだ! なんか良心の鈍痛のようなものを感じたのです。

大学に入ってすぐ友人の活動家からオルグも受けましたが、学生運動をやっても就職すればやめるような自己満足的なものという偏見があったし、ソ連、東欧式社会主義にはなんの魅力も私にはなかったのです。「山崎博昭の死」、それはそんな偏見を粉々に砕き、逆に私の良心をグサリ、問いつめるものでした。「お前は何をやってるんだ!」と。

だからといっておいそれと学生運動参加もままならず、その間に「日本の音楽界を革命する」バンド、裸のラリーズ結成時期を挟みますが、1968年あたりからデモにも参加、東大安田講堂バリ死守戦、半年の投獄生活を経て赤軍派、そしてよど号ハイジャックで朝鮮へ、それは私自身にとっては「革命家への飛翔」でした。

赤軍派を選んだのは、運動の後退局面転換のためには武装闘争しかないという思いと共に、「命がけ」ということが「山崎博昭の死の衝撃」以来の私の基準だったからでしょう。この私の未熟さを悟るのは朝鮮に来てからのこと。

今回は、「人間としていかに生きるのか」があの時代、私たちに問われた点に限って自己史的にたどってみました。ビートルズ、長髪以来の「いかに生きるべきか」の暗中模索、「出口なし」状態の私を救ってくれたのが学生運動だった、そう思います。

日本社会を変えようと考えた思想的動機としては、戦後世代特有の「軍国主義脱却も民主主義も消化不良」の「自分のものがない」戦後日本への疑問、子供の頃、憧れの対象だったアメリカン・ドリームが急激に色あせたこと、「二度と戦争をしない国」をめざす憲法9条平和国家、日本が日米安保のためにベトナム戦争荷担国家になるという現実への疑問などなど、子供の頃から抱え込んだ問題意識の経緯については、また機会があればお話ししたいと思います。

Hさんへのお返事 赤木志郎

どうしてそこまで思い詰めたのかということですが、武装闘争しか道はないと思ったからです。今から考えれば武装闘争という方法を考えなかったと思います。いかに国民に依拠するかが大切ですから。

当時、デモをやってもただ機動隊に蹴られ殴られるだけでした。それを突破したのが67年のゲバ棒と投石で機動隊を打ちのめした羽田闘争です。

しかし、その後の闘争で追いつめられ学外に出られない手も足もでない状態になり、機動隊の暴力にはそれにさらに上回る武装闘争しかないと考えたのです。単純といえば単純で、国民の意思や要求と無関係でした。

それで大学に入った学生がなぜそんなことをしたのかと疑問に思うことでしょう。それは、闘争と生き方を結びつけて考えていたからです。もちろん命をかけるというのは覚悟がいります。しかし、正義の闘いから退いては人間としてだめになる、それまで支えてくれた人たちの義理に背いてはだめだ、そういう生き方から決心したのです。それ自体は今でも間違っていないと思っています。

しかし、闘いに身を投じる生きかたが正しいとしても、その闘いがほんとうに国民のためになるのか、自分のためだったのではないかという問題があります。

そのことを深く考えなかったのが誤りでした。今は、国民大衆がどう考え、何を望み、どんな社会を求めているのか、そこから出発して考えようとしています。

Hさんへのお返事 魚本公博

「そこまで思い詰めたのが理解できないということ」について
当時は、そういう時代だったということ。

東西冷戦の最中で、社会主義も眼前のものとしてありました。そういう中で資本家が勤労者を搾取する資本主義制度そのものも非人間的なものと写り、それは良くないというのが漠然としてありました。

一方、私の場合、叔父さんがフィリピンのセブ島で戦死し、父親も出征してインドネシアやマレーに居て、英軍の捕虜になっての苦労話を聞いたりして反米反英的な気分をもっていました。

とくに別府には進駐軍が居り、3歳頃、それはちょうど朝鮮戦争の頃ですが、別府の進駐軍は朝鮮に行っていた部隊で、そのためか街に出ると米軍が暴れて窓が割れ血が流れている場面などをしばしば目撃し、何か生理的な嫌悪感を持っていました。

小学校の上には米軍の射撃場があって、皆と弾拾いに行って、監視兵にどなられて小便ちびりながら逃げた経験もあります。

こうして反米愛国的な気分をもっていましたが、九州という土地柄か、それは私だけでなく他の子供もそういう感じでした。

そういうことから68年のエンプラ闘争(米原子力空母エンタープライズが佐世保に入港したことに反対した闘争)を見て、ああ学生達の運動は反米愛国の戦いなのだと思い、学生運動に参加するようになりました。

そこでマルクス・レーニン主義の書物などを見て、日本で革命をやり社会主義の国にすることこそ至高の愛国、至高の反米だと思うようになり、活動にのめり込むようになりました。

活動家として認められ、それなりの評価も受けるようになることで、学生運動は私が探し求めていた「居場所」だったのです。

こうして69年には東大安田講堂の攻防戦にも参加し、10ヶ月の拘留も経験しました。この安田講堂攻防戦によって、全国各地で大学封鎖が広がり、これを解除しようとする政府による機動隊導入が行われ、運動は衰退局面を呈するようになりました。私も母校関大に帰ってみると、大学封鎖は解除され、かつての仲間はバラバラという運動の衰退を痛感しました。

それは、「私の居場所がなくなった」というような暗澹とした気分にさせるものでした。
私が、赤軍派に参加しHJに参加したのは、あの「認められ」、やり甲斐、生き甲斐を感じた「私の居場所」を失いたくないという思いの強さが背景にあったと思います。
そこで、この道から退かない、たとえ何があっても、命がなくなってもというような決意を持つようになりました。

確かに、「自分の思い中心」で、他のこと、親のこと、国民が何を求めているかなどは眼中にない、そういう自己中心だったと思います。そのことを痛切に反省しています。(了)