内田樹氏の問題提起に考える

魚本公博

内田樹氏が「平成30年を総括して欲しい」という原稿依頼を受けて書いたという「平成が終わる 2」というブログ記事を見た。

彼は、平成30年の総括を「落ち目の30年」であったとする。

その経緯と背景を彼は、次のように説明する。すなわち、戦後の国家戦略は「対米従属を通じての対米自主の実現」であったこと。それは80年代後半のバブル期に「金で国家主権を買い戻す」ことが可能かもしれないという気分にさせたこと。

しかしバブルははじけ、それが挫折した後は、「卑屈で展望のない」対米従属だけになり、対米従属が自己目的化されこと、それが今の日本だと。

そして、「日本が『落ち目』だということについて国民的合意が形成され、なぜそうなってしまったのか、そこからの回復の方位はありうるのかについて自由闊達な議論が始まらない限り、この転落に歯止めはない」と主張する。

内田氏は「対米従属をやめ、国家主権を取り戻せ」という立場に立つ。その上で、氏は、それを政治スローガン的に叫ぶのではなく、国民一人一人の精神的なあり方として、「一人一人の努力が国力向上に結びつくような回路をいかに作るか」という問題として提起する。

私は、この問題提起は「思想家」として「さすが」と思うし、極めて重要な問題提起だと思う。

しかし私は、ここで更に突っ込んだ問題提起をさせていただきたい。その「回路」はすでに存在し、「回路の方位」も明らかではないかと。

何故なら、戦後政治を規定してきた、その土台そのものが崩れているからである。

戦後政治。内田氏が「対米従属を通じての対米自立」というのも、吉田ドクトリンのことであろう。すなわち「軍事は米国に任せて、経済に専念する」という路線。

それは、圧倒的な力を持つ覇権国家・米国と、それを中心にした世界的な覇権秩序を前に、日本はそれに従って生きるしかない、それが一番日本にとってよい生き方だというものだった。

勿論、そこには「反対」「批判」「不満」も存在した。それは自民党内部にも存在したし、「安保反対」という左からの主張もあった。しかし、それが国民的合意として形成されるまでには至らなかったことも事実であろう。

しかし今、米国覇権が終焉し、世界的な覇権秩序も音を立てて崩れつつある中で、「いつまでも対米従属で、国家主権なき日本でよいのか」という問題が一人一人の国民に突きつけられるようになっている。

外交、軍事、経済をどうするのか? 社会保障は、地方・地域問題は? それは格差拡大の中で生活苦に喘ぐ国民一人一人が直面する切迫した問題だ。それは又、まさに「対米従属を自己目的化して暴走する」かのような安倍政権への対応を伴ってもいる。

対朝鮮政策一つを見ても、米国覇権を頼みにして戦争も辞さないかのような政策は、孤立し置いてけぼりを食らっている。どうするのか。日本の生き方を脱覇権の時代の中で、国民一人一人が考えて行かざるを得なくなっている。

まさに国民的合意の「回路」はすでに存在し、「回復の方位」も明らかなのだ。その方向で議論を起こすという前向きな姿勢こそ肝要なのだと思うのだが、どうだろうか。