赤木志郎
学生運動に参加した人は多かれ少なかれ、マルクス主義の唯物史観や剰余価値学説を学び、いわゆる労働者階級の階級的立場に立たねばと考えたと思う。
私もそうだった。高校生のときに民青に加入し、週1回の学習会と初級同盟学校を通じてマルクス・レーニン主義を学習し、ソ連・中国・朝鮮の映画を見て革命と社会主義に憧れた。周りも工場街の下町で争議が多く、階級闘争の雰囲気があった。
しかし、それは多分に観念的にすぎなかった。なぜなら、自身が労働現場に何年も働いたことがなければ、働く人々の心情と要求を深くとらえることもなかったからだ。そしてなによりも、階級的立場を言いながらも、勤労人民のために生きるということを確固として決心していなかった。
むしろ私は普通の人々と異なる特殊な存在になることを求めていた傾向が強かった。高校時代、クラブ活動以外に、原水禁署名運動、集会や自主映画などの活動に専念し、そこに生き甲斐を見いだしたが、その生き甲斐はどちらかと言えば他の級友とは異なった特別なことをやっているというものだった。野球など皆が話題にすることなど関心がなく、歌謡曲などまるで馬鹿にしていた。
大学に入って何をするのか決めていなかったので授業にも出なかった。父からは「18歳もなって何をするのか決めるものだ」と嘆かれた。兄の関係から社学同メンバーだとはじめから思われ、毎週のデモに参加した。それは機動隊に殴られるためのデモだった。
そのうち七月になって最初の現地闘争である立川基地反対闘争に参加した。そこで見たのは、学生が旗竿で機動隊とやりあう場面であり、自動車などをひっくりかえしてしまう一種の騒乱状況だった。
私はそのまま東京に残り、三派全学連大会を傍聴した。大会で演壇の発言者が何か言うと、左右に陣取った社学同の学生と社青同解放派の学生が出てき、ひとしきり殴り合いをし、また席にもどるのだった。それはまるで映画を見ているようだった。私の血が騒ぐようだった。
私は二次にわたる羽田闘争、佐世保闘争とまっしぐらに突き進んでいった。
第一次羽田闘争では、穴堀橋に駆けつけた。すでに争乱状態で、機動隊が負け学生たちが勝っていた。皆で機動隊員を追いつめ、アスファルト舗道をはがした塊を投げると機動隊員がよろけていた。生涯、はじめて味わう爽快さだった。心の底から万歳!という言葉が出た。
第二次羽田闘争は、山崎君が死亡したこともあり、張りつめた雰囲気だった。駒場祭に集まった父兄たちの前で気勢をあげ、一気に羽田に向かった。八千人もの赤ヘルの進撃は見ても壮大だったが、先頭の丸太が突っ込んでも装甲車に勝つわけがない。一気に隊列が崩れ、後退していき、あっけなく終わった。
原子力空母エンタープライズ号の初寄港に反対する佐世保闘争は、アメリカのアジア侵略に反対する反米闘争だった。だから、いっそう大きな意義をもっていた。
しかし、その時は学年末試験の前だったのでその参加は試験準備を放棄することを意味していた。私は闘争の意義よりも皆が行きそうもないときに闘う方が格好良いと考えた。
佐世保橋の上での最初の衝突では、私は最前列にいた。機動隊長の「かかれっ」という号令のもと突撃を受けたにもかかわらず、私一人無傷だった。周りの学生たちが折り重なり倒れた。マスコミの記者たちがいっせいに機動隊に抗議し、機動隊は数歩引き下がった。
私は機動隊と学生たちの間にあって、橋の上で倒れていた学生を起こしながら、青空のもとでふと「自分は何をしているんだろう」という想いが一瞬よぎった。今でも絵のように鮮明に記憶している。その後は、惰性のような衝突を三日間繰り返した。
後から考えると、「自分は何をしているんだろう」という思いがよぎったのは、闘う意味が分からなくなったということだ。それまで闘争に賭けるということを明確な決心のないまま高揚する現地闘争の流れに乗ってきたので、改めて闘争の決心を問われたといえる。
佐世保闘争から帰ってきた私は、知り合いの生協職員からやくざみたいだと言われた。なるほど、大学や級友と離れ現地闘争に出かけていくのは、出入りをするやくざと変わりはないと妙に納得した。それほど私の風貌が険しいものに変わっていたのだ。
佐世保闘争は佐世保市民のほか国民からの支持を受け、社会党が「全学連は同盟軍だ」という談話をするほどだった。人民大衆が支持する闘いだから、誇りをもち力を得、情熱が湧くはずだった。
しかし、私はその闘いの先頭にいながら、「自分は何をしているんだろう」という疑問をもったということは、とりもなおさず私の闘いは人民のための闘いではなく、自分個人の特別な生き方、自分の格好良さを求めた「闘い」だったのではないか。それまでの一日だけの現地闘争ではなく一週間以上の闘いで疲労を覚え、機動隊との直接の衝突のなかで躊躇するようになったとしか言いようがない。
自己犠牲性に憧れながらも、実際に少しでも困難で身の危険があれば、闘争から心が離れる程度のものでしかなかった。
「自分が何をしているんだろう」という疑問は、死をも賭して闘うのかという問いであった。当時、意識していなかったが、その問いに答えを見いださないまま、闘争から少しずつ離れていった。誰のために、何のために闘うのかという問いの答えをもっていない以上、積極的に闘うということにならない。この資本主義社会を拒否する以上、犯罪者になるか世捨て人になるか、革命に賭けるしかないなと心の中でつぶやいた。