【今月の視点】東北アジア新時代と日朝関係の改善

小西隆裕

昔から、一衣帯水(狭い水を隔てて近接している様)、唇歯輔車(互いが支え合って存在していること)の間柄にあると言われて来た日朝。その関係が、今、最悪の状態にある。

そうした中、今日、時代は東北アジア新時代。戦争と敵対から平和と友好、繁栄へ。日朝を取り囲む時代的環境は大きく変わってきている。

この新しい時代への転換にあって、日朝という懸案のこの問題にどう向き合い解決するか、それが切実に求められていると思う。

■古い時代の遺物、最悪の日朝関係
日本にとって、もっとも近くにありながら、もっとも遠い国、それが「北朝鮮」だ。

日朝の間に横たわる不信と嫌悪、蔑視の感情は普通ではない。それは、政府間の域を遙かに超え、互いの政府、国に対して抱く国民的なものにまでなっている。

その結果、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)創立の最初から国交は断絶状態。今では交易禁止はもちろん、人士や物資の往来そのものまで極度に制限されている。

懸案の拉致問題は、その集中的な表現であり、まさにここに、両国間の不信と嫌悪、蔑視のすべてが凝縮されていると言うことができる。

今、この最悪の状況を指して、「冷戦の遺物」だととらえる人は少なくない。米ソ間の「体制抗争」、「覇権抗争」だった「冷戦」が今もかたちを変えて続いているということだ。

もちろん、そうした要素があるのは事実だと思う。しかし、日朝間の状況には、それとは大きく異なる要素があるのも事実だ。

何よりもまず、日朝問題は、36年に及ぶ日本による対朝鮮植民地支配とそれに反対する朝鮮人民の闘いから始まっている。その決着は未だ付いていない。

もう一つは、日朝間の闘いが社会主義と資本主義、「体制間抗争」としての側面を持ちながら、「覇権抗争」ではなく、「米国の後ろにくっついての日本による従属覇権とそれに反対する朝鮮の主権擁護の闘い」としての側面を強く持っているということだ。

だから、「最悪」の日朝関係を指して、単なる「冷戦」の産物、遺物だと言うのは当たらない。それを言うなら、日本帝国主義の敗戦、ソ連邦の崩壊後も継続して来た戦争と敵対の古い時代の遺物だと言う方が当たっていると思う。

■東北アジア新時代の中に入ってこそ
今日、最悪の日朝関係克服の道として、よく言われるのが「脱冷戦」だ。「冷戦思考」からの脱却にこそ日朝問題解決の鍵があるということだ。

だが、先に述べたように、「最悪」の根は「冷戦」を超えてさらに深い。問われているのは、戦争と敵対の古い時代そのものからの脱却だ。

では、古い時代からの脱却とは?それは一体何を意味しているのか。

あたかも、東北アジア新時代が始まろうとしている。戦争と敵対から平和と友好、繁栄へ。古い時代から新しい時代への大きな時代的転換だ。

この歴史の新時代にどう対するか。言うまでもなく、新しい時代を外から見ているだけで、古い時代からの脱却はできない。「脱却」とは、すなわち新しい時代の中に入って行くことだ。そうしてこそ、古い時代から抜け出し、日朝関係改善の道を切り開いて行くことも可能になる。

しかし、新しい時代の中に入り、日朝関係改善の道を探るからと言って、「経済援助」や「国交正常化」をそのためのテコにし、カードにするといった考え方、やり方はどうだろうか。このところ政治家や識者の間で一般的になっているこうした考え方には、朝鮮蔑視のにおいが濃厚だ。「北朝鮮は、カネを欲しがっている。体制の保証を哀願しているのだ。そこに劣勢挽回の鍵、日本の強みがある。そこにつけ込め」ということだ。

だがこれでは、不信と嫌悪、蔑視の日朝関係の上塗りにしかならないのではないか。実際、朝鮮は、こうした日本側の態度に対し、「われわれはカネや体制保証を求めているのではない」と言いながら、日本との対話に熱意を示さず、一番後回しにしているように見える。

古い時代から脱却し、新しい時代の中に入るとは、新しい時代の当事国になるということだと思う。すなわち、当事国として自らの使命と役割を果たすとともに、当事国同士、他の当事国と力を合わせ、時代の基本精神、共通利益を守っていくようにするということだ。

その過程で生まれる当事国相互間の信頼感、それが日朝関係の改善にとっても、何より貴なものになるのではないだろうか。

■新時代当事国同士、互いに主体的に!
平和と友好、繁栄、この東北アジア新時代の基本精神、共通利益には、全世界が賛成だ。先の歴史的な南北首脳会談、それに続く朝米首脳会談への世界的範囲での評価と賛同、歓迎の声は、そのことを示している。

この世界共同の時代的関心事に無関心であってはならない。東北アジアの関係諸国がこの新時代の流れに敏感に驚くような速さで合流の意思を表明して来ているのは必然だと言うことができる。

当の南北朝鮮、米国はもちろん、中国、ロシアの動きも迅速だ。その中で一人遅れているのが日本だ。それこそ世界の趨勢について行けていない日本政治の実態を映す何よりの証ではないかと思う。

そうした中、留意すべきことがある。時代の基本精神、共通利益をめぐる当事国同士の思惑が互いに異なり、食い違っていることだ。

米国は、行き詰まった自らの覇権戦略、戦争と敵対の戦略の打開とそこからの大転換を狙っており、中国やロシアは、その米覇権戦略に対抗し、自らの主導による新たな国際秩序の構築を企図している。一方、南北朝鮮が、大国の干渉をしのぎながら、自分たちの平和と繁栄、統一の実現を目指しているのは、先の「板門店宣言」に明らかだ。

互いに相異なり、対立さえする各国の志向と意思、思惑と戦略を内に含んだまま進行する平和と友好、繁栄の東北アジア新時代。そこに求められているのは、この時代の進行を通じて、東北アジアだけでなく世界中の人々が求める時代の基本精神、共通利益が実際に実現されて行くことではないかと思う。

米国も中国、ロシアも、南北朝鮮、日本も、新時代に関与し支えるすべての当事国は、この時代的要求に服従し忠実であることが求められる。東北アジア新時代の中に入るとは、まさにそういうことではないだろうか。

今日、日本政治の実情は、こうした事態発展に対応できていないように思われる。そもそも、日本自らの意思、戦略というものが見えない。東北アジア新時代の中に入る以前の状態だ。

そうした中問題なのは、米国にはその戦略に沿った日本への要求がすでに準備されているということだ。戦争と敵対の古い米覇権戦略が崩壊する中、新しい平和と繁栄の戦略に覇権再構築の望みを託す米国にとって、日本の軍事・経済力を動員し尽くすのがその戦略実現の前提になっている。

その上で問題は、こうした米国の要求と新時代の要求とが本質的に矛盾・対立していることだ。朝鮮への米系外資の浸透が表面上の「繁栄」とは裏腹に、朝鮮の改革開放(資本主義化)と米国の拠点化を企図したものであること、在韓米軍の撤退が米覇権軍事体系の改編と一体であること、等々、すでに衣の下から鎧が覗いている。

維新以来150年、戦後70数年、日本の対欧米従属は、東北アジア新時代を迎え、その極致に達するようになる。この間、外交戦の「蚊帳の外」に置かれ、その姿が見えなくなっていた日本は、この新時代、米国の陰に隠れ、その一部に組み込まれて、国としてのかたち、あり方を完全に失ってしまうのではないだろうか。

この国家存亡の危機にあって、日本の前に問われているのは、新時代の時代的要求に応える道以外にないのではないだろうか。東北アジアの真の平和のため、友好のため、繁栄のためにどうすべきか。それを、日本主体に、自分の頭で考え、打ち出すことだ。それが米国の軍事、外交、経済戦略と食い違っていても構わない。問題は、東北アジアの平和と友好、繁栄のため、それが本当に求められるものであるか否かだ。それを東北アジアに、全世界に広く問うて行くことだ。

「東北アジアの真の平和と友好、繁栄のために」、現代の「錦の御旗」にはそう書かれている。そのために新時代当事国同士、互いに主体的に自らの意思と要求をぶつけ合えばよい。

歴史の新時代、東北アジア新時代にあって、日朝が互いに主体的に、当事国同士心と力を合わせ、共通の時代的要求実現のため、ともに闘って行くようになる時、こじれにこじれた日朝関係を真に改善する道が開けてくるのではないだろうか。