赤木志郎
海外へ国際根拠地建設のために行く話は、最初、船で銃撃戦をやりながらどこかの国(多分、キューバを想定)に行くという話だった。
それから二週間後、朝鮮へのハイジャックを告げられたとき、私は赤軍派がなんて革命的な組織かと感嘆した。なぜなら、新左翼の多くは社会主義国にたいし良く思っていなかった。そのなかでも朝鮮にたいしてはまるで眼中になかった。それゆえ、赤軍派が朝鮮に行くというのは新左翼では画期的なことだった。
朝鮮はかつて36年間もの日本が植民地支配した国であり、戦後も敵視しつづけてきた国であり、そのような国に敵視の壁を破って日本の学生が訪れること自体が大きな意義があると確信した。それはまた、誰も思いつかない戦術なので十分成功すると思った。
ハイジャック決行までの2週間ほど、私には緊張した日々だった。赤軍派に参加する決心をしたとき命を賭ける覚悟をかためていたが、実際にその覚悟が問われたのだから緊張せざるをえなかった。
このとき、生涯初めて日本を意識し、日本の美しい自然風景が目に沁みこみ、普通の人々の情を愛おしく思うようになった。そのことは私にとっても意外だった。東海道本線から北陸本線への乗り換え地点の米原駅で仰ぎ見た雪に覆われた深い山々山並み、若夫婦が忙しく働いていた新橋の豚カツ定食の店、コーヒー代のお釣りだと追いかけてきた米子の喫茶店の子、ポマードを買いにいった化粧品屋のお姉さん、すべてが私の目に焼き付き、心に沁みていった。日本を離れるからそんな感情の虜になったかもしれない。
しかし、私の行動はまったく相矛盾する方向へ向かっていた。日本の自然を美しいと想い、人の人情を懐かしく感じながらも、国境を越えるためのハイジャックに私は全神経を集中させていた。
一回目の予行練習となった小松飛行場から東京に帰ったとき、銀座の百貨店に寄ってインスタント写真を撮って、それをその場で書いた手紙に添えて家族宛に投函した。「さようなら、いつか家から出たかったのです」という内容だった。その手紙は迂回する方法で出したが、その宛先住所がおそらく間違っていたのか、届かなかったそうだ。離別に際する手紙としては酷な内容だと思ったが出した。私にとって、出ていく「家」とは日本を、日本のさまざまな拘束を意味していた。
日本を離別し国際根拠地つくりに命を賭けるという日々のなかで、生涯はじめて日本と人々の情をそれほどまで懐かしがったのは、命を賭けて闘うことに対し「何のために」「誰のために」という問いが内からこみ上げていたのだと思う。今からふりかえって考えると、その答えが抑えがたい日本への想いと人々の情に対する愛着として噴出していたのだろうと思う。
しかし、私は、後ろ髪を引かれる想いを断ち切って、飛び立った。
それからの50年近い歳月は、離別を告げたはずの日本を想い、日本への愛に気づいていく日々だった。