若林盛亮
今年度の本屋大賞ノミネートという辻村深月の「かがみの孤城」を読んだ。
裸のラリーズの楽曲にも“Enter The Mirror”というのがある。「鏡の中の世界」という舞台設定は、なぜか私の心をざわつかせる。
小説の舞台は鏡の中の異次元世界、自分の部屋の鏡から侵入できる「かがみの孤城」だ。その住人に選ばれた7人の中学生、彼らは学校で孤立している不登校やひきこもり、それぞれの事情があって学校、教室で自分の手に余る「闘い」を余儀なくされている少年、少女たちだ。
そんな彼らの「かがみの孤城」での一年間の生活、それは互いを肯定し、認め合いながら相手との交流、友情を育む過程なのだが、それが実は自分と向き合う過程だった。そしてそれは、「かがみの孤城」がなくなった後も、次の一歩を鏡の外の世界に踏み出す力を、友情の記憶と共に与えられていく過程だったのだと思う。「鏡の中の世界」での出会い、交わし合う友情、それが自身への自問自答の機会となり、次の一歩を踏み出す自分の力を気づかせてくれるのだ。「かがみの孤城」を私はそう読んだ。
私にもこれに似た体験がある。大学受験を控え、自分はどこの大学で何を勉強したいのか、勉強して何をやりたいのか? いくら考えても自分の頭には答えがないまま、私は高3を迎えた。そんな頃、ビートルズに脳天を直撃され長髪になった。ある日、体育教師から「女の子の授業はあっちだ」と言われ、「ようし、ならあっちへ行ってやる」と心に決めた。進学校、受験勉強からのドロップアウトの始まり、進学校とは異次元の世界への“Enter The Mirror”、今から思えばそんなことだ。
この「鏡の中の世界」で出会ったビートルズ狂い「同志」は、私のドロップアウトの選択と決心を「ぜんぜん悪くないよ、いいんじゃない」と肯定し、新しい世界へと私の背中を押してくれた。もし独りのままだったら決心を徹底できたかどうか?
同志社大学時代は、立命近くのジャズ喫茶「しあんくれ~る」が私の「鏡の中の世界」になった。万博に向かう高度成長の「明るいニッポン」、そのうさんくさい「昼間の世界」からドアを開けて一歩中へ“Enter The Mirror”、そこはジャズの洪水、昼間とは真逆の「夜の世界」だった。そしてドラッグの導くさらに異次元の世界もあった。昼間の世界に背を向ける多くの人と出会い、心を交わし合ったが、そのほとんどがみな暗中模索渦中の「同志」たちだった。次の一歩は見つからないまま時間が流れた。
そんななかで「1967年10・8羽田闘争-山崎博昭の死」は、もろに私の心臓を直撃した。この衝撃が、社会から背を向け続けてきた私をして、社会に真っ向勝負を挑む道に向かわせた。私はようやくにして「鏡の中の世界」から次の一歩、外の世界へと踏み出す力を得た。この小説に重ね合わせて思えば、自分にこんな力が生まれたのは、「鏡の中の世界」での数々の出会いによって、自身への自問自答を重ねる過程を経ることができたからこそだと思う。
端から見れば、ぜいたくで無駄な時間を過ごしたように見えるかもしれない。だがそんな時間が必要な人生もあるのだと思う。「かがみの孤城」を読んでそんなことを考えさせられた。