第14回かりの会帰国支援センター総会開催される

よど号“欧州拉致”逮捕状の撤回を求める会(旧・国賠裁判を支える会)事務局

かりの会帰国支援センター総会が七月二九日、新橋カンファレンスセンターの“高級”会議室で行われた。東京は台風一過、酷暑のなか二五名が参加した。

〈第一部〉◇ 年間活動報告 (司会はT氏)
帰国支援センター代表の山中幸男氏が、「ようこそ日本人村」(ピョンヤンかりの会ウェブサイト)の開設・運営の支援、「旅券発給」の闘いなど、この間の活動を報告。

はじめて訪朝し帰国支援活動を始めたのは一九九〇年、今年はH・Jから四八年、再来年は五〇年の区切り。朝鮮半島の劇的変化もあった。二〇〇一年五月に子供たちの帰国を実現させて以降、現在もなお六人が平壌にいる。残る六人の帰国を実現させたい。子供たちにはパスポートが発給され朝鮮のビザも出る。

朝鮮は「山中訪朝団」には今後もビザを発給、必要であれば支援者にも出すと言っている。八月に訪朝、一一月も予定している。ウエブサイト、ツイッターの開設で、平壌の六人は直接、日本にも伝えることができるようになった。帰国家族の旅券発給拒否にたいする闘いも帰国支援センターとしてやっていきたい。

その後、「ツイッター継続とウエブサイト開設について」の報告。
ツイッターはK氏。二〇一四年に開設、ネット右翼からの投稿も多いなか、これを平壌に送信(転送)、平壌はほとんど返信してくる。ツイッターという短いメッセージの中にも、六人それぞれの「日朝関係について」「趣味」「日常生活」などが伝えられようになった。今後も幅広く、シツコク、モクモクとやっていきたい。

ウエブサイトはS氏。昨年一一月開設、ウエブの画像は写真家の初沢亜利氏が訪朝し撮影したもの。「よど号ライフ」「あなたのひとこと」などを掲載、質問に対する回答も行っている。メディアからの直接、取材依頼もある。声明も載せている。平壌から直接、発信していることが重要。「何でハイジャックしたのか?」との質問にもわかりやすい言葉で返している。自分たちの”ことば”で伝えることができるようになった。帰国運動にどうつなげていくか、これからもやっていきたい。

「新たな旅券発給の闘いについて」はIとN氏が報告。
Iからは「欧州拉致・逮捕状の撤回を求める」国賠を提訴したが敗訴した。しかし、このまま座して待つわけにはいかない。帰国家族K氏の旅券発給の闘いを突破口に日本政府に対して逮捕状の撤回と帰国問題の解決を迫っていきたい。

申請には詳細な資料も提出した。外務省からは「朝鮮までの交通手段、宿泊場所、安全」についての問い合わせがあり、回答もした。外務省には「決断を促す」申入書も提出した。

もしかしたら「限定旅券」の発給くらいはあるのではないか、との「期待」もあったが、結果は発給拒否であった。拒否理由は「拉致にかかわっている人たちとのつきあいがあり、危険である」というもの。K氏は帰国後、仕事(医療分野)に就き、まっとうな「市民生活」をしており、「非国民」のような扱いは許されない。北東アジア(朝鮮半島)の「緊張緩和」の流れのなか、「移動の自由」という「国民の権利」を制限してはならない。今後もしっかり闘っていきたい。

N氏は代理人・特定行政書士(全国四〇〇〇人)として七月一一日、外務省に審査請求書を提出した。その後、七月二四日、審理員に(外務)大臣官房考査・政策評価室長河原一貴(キャリア)を指名する通知があった。指名された審理員は外交政策のプロであり、かまえた人事である。今後は、いろいろ資料を外務省からひっぱりだして反論していきたい。

拒否理由のなかの旅券法第一三条第一項七号の適用は判例違反である。また、国交がないからという理由もあてはまらない。国交のない朝鮮には支援者を含めて、たくさんの人が訪朝している。審査は非公開だが、補佐人をつけることができる。補佐人をできるだけ多くしたい。採決次第では行政事件訴訟法に基づく「旅券発給」拒否の取消し訴訟を被告国・法務大臣を相手に提起していく。K氏が朝鮮に行けるまでがんばっていきたい。

第一部では平壌在住の六人の帰国実現に向けた闘いを今後もすすめていくことが確認された。次に平壌(ピョンヤンかりの会)から総会に寄せられたメッセージを帰国家族のK氏が代読した。

~ピョンヤンからのメッセージ~
私たちの帰国支援センター総会にお集まり下さった皆さん、お忙しい中、本当に有り難うございます。
この間、最悪の日朝関係の中、単行本「えん罪・欧州拉致」の発刊に続き、旅券再発給請求の闘いを通して、「よど号問題」解決・帰国実現の道を切り開いてきた私たちの闘争の前にも、今、広々とした展望が開けてきています。
この間、史上初の「南北」、「朝米」の首脳会談によって開かれた平和と友好、繁栄の東北アジア新時代は、日朝関係改善、「よど号問題」解決のため、これ以上にない好条件をもたらしてくれています。しかし、好条件イコール、事の成就ではありません。
今、日朝関係は、はかばかしい進展を見せてくれていません。そこには、日本の対米追随と対朝鮮敵視と蔑視が少なからず作用しているように思われます。それが、朝鮮側の「米国を相手にしておけばことは足りる」「われわれはカネや体制保証を欲しがっているのではない」、等々といった反応を生み出し、関係改善への足を引っ張っているのではないかと思います。
こうした中、もっともよくないのは、日本が朝鮮の「弱み」につけ込み、それを自らの「強み」として、日本優位の関係改善を図ろうとすることです。それは事態のさらなる悪化を招くだけです。
今、もっとも切実に問われているのは、東北アジア新時代の発展のため、日朝がその当事国同士、ともに力を合わせて行くようにすることではないかと思います。それを通してこそ、真の関係改善も可能になるのではないでしょうか。そのために、私たちは、自らのサイトなどを通じてそのことを訴えるとともに、旅券再発給問題をはじめ、古い時代の遺物である「よど号問題」の解決と帰国実現のため、あくまで闘って行く所存です。歴史の新時代である今、どうかこれまでにも増したご支援を切にお願い申し上げます。
2018年7月 ピョンヤンかりの会 成員一同

〈第二部〉 「どうなる日朝関係!訪朝報告」(進行・司会は I)
報告者は四人(プロフィールは下記)。最近、訪朝した古賀滋(五月)、伊藤孝司(六~七月)、M(七月)の各氏が報告、浅野健一氏は六・一二シンガポール朝米会談の取材報告。

これまでどう朝鮮にかかわり、最近の朝鮮半島の「緊張緩和」の流れをどうみるか。「日朝友好」、「釜ヶ崎・辺野古」の各運動にかかわる立場から、そして訪朝を重ねる「ジャーナリスト」の視点からの各報告は、説得力(現場主義)のあるものであった。

二〇〇二年に歴史的な日朝平壌共同宣言、しかし朝鮮が拉致を認め謝罪して以降、日本政府は朝鮮敵視政策を加速させ「圧力一辺倒」に転換、報道もこれを後押ししてきた。

各報告は、これまでの日本政府の朝鮮敵視政策を批判、「休戦協定」から「終戦宣言」、そして「平和条約」の実現へと期待が高まるなか、「敵視政策」から「北東アジアの緊張緩和」に貢献する政策転換が求められている、と迫るものであった。

また、マスコミの「北朝鮮の核・ミサイル・拉致」の報道姿勢についても厳しく批判した。(各報告別掲)

閉会の辞はK氏。「本日の総会は内容の深いものであった。これからの日朝関係、自分自身の闘いとしてもがんばっていきたい」と挨拶。

総会後の懇親会は中華料理店「四季ぼう坊」。総会出席者半数の一二名が参加。「旅券問題(中東)」などの情報交換。かって朝鮮貿易にもかかわったという久しぶりの参加者も。大いに盛り上がり、更にもう一軒という人たちも。

報告者プロフィール(発言順)
◆古賀滋氏 五月に大阪日朝友好代表団団長として一二回目の訪朝。「社会運動情報・阪神」ブログを運営。
◆伊藤孝司氏 フォットジャーナリスト。六~七月に訪朝。これまで三九回の訪朝。最近、『朝鮮民主主義人民共和国 米国との対決と核・ミサイル開発の理由』(発行:一葉社 定価一二〇〇円+税)を刊行。平壌滞在中にブログを更新。
◆浅野健一氏 同志社大学大学院教授(最高裁で地位係争中)。一九
九八年から一四回訪朝。六・一二シンガポール朝米会談を取材。朝鮮新報のHPに記事。
◆M氏 七月に二回目の訪朝。釜ヶ崎在住、沖縄「辺野古」支援活動にかかわる。

◇古賀滋氏の報告
スライドを見ながら、お話しします。
これが関空に集合した訪朝団です。今回だけ、税関が調べに来なかった。しかし、この数十メートル横のカウンターから入ろうとした在日朝鮮人の青年たちの方に税関は襲いかかり、全員のスーツケースを開けました。

われわれの方に来なかったのは何故か? 私が邪推するのは、今回、毎日放送の方が一緒に行ったのです。この人が行くという情報を仕入れたと思います。

関空では、出発するちょうどその日に南北首脳会談が行なわれていましたから、ロビーで延々とこれをやっておりました。一緒にいた在日の人たちは涙ぐみながら、これを見て出発しました。

これは北京空港のピョンヤンに行く飛行機の待合ロビーです。欧米人が多い。アメリカ人も多かった。いろんな国のヨーロッパ人がいつも多い。日本人が少ない。この時点では中国人も少ない。

板門店に行く高速道路です。田舎の風景が見えます。日本人は、いろいろ悪くいいますが、田舎には田舎暮らしのいいところがあります。

板門店に行く高速道路、休憩所

板門店に着きました。これはキム・イルソン主席の親筆です。南北の統一について方針を出された、亡くなられる一日前に決裁された文書の直筆サインが展示されています。

人民軍の大尉さんが案内をしてくれました。

板門店の全景

四月二七日、首脳会談でムン・ジェイン大統領もここを通られた。これは有名な板門店の建物です。向側が韓国側の建物、ここが二人が食事をされた場所と記念碑です。それを北側から見たのが、われわれが展望台の上から案内されていたこれです。

これが食事をした場所。隠れていますが記念碑があります。赤い所がキム・ジョンウン委員長が通って行かれた所です。青い矢印が南北首脳会談が行なわれた所です。直後に私たちが来させていただいて、大変に光栄でありました。

板門店から帰って来たら、ポトンガンホテルによど号の皆さんが来てくれました。皆さん、年をとっておられましたが、お元気でした。うちの団員、希望者だけが行きますかと声をかけましたが、全員が「行く」と言いまして、お会いをして大変楽しい一夜を過ごさせていただいたという写真です。

向こうに行きますと、レストランには今は古いテレビはほとんどないです。全部液晶の大型テレビジョンになっています。ここで、南北会談の様子を子細に報道しておりました。
これは自然博物館、アコーディオンを持って行くんですが、「また、いらっしゃいましたね」と言われました。これは向こうの町の風景、普通の市民生活があります。皆、楽しそうです。

これは、ピョンヤンの学生少年宮殿、プロ並みの刺繍です。そして、高級中学校へ友好訪問に行きました。歓迎公演をしてくれました。大人のスターの素質が、中学生・高校生の頃から備わってきています。

これが、板門店で南側にある朝鮮民主主義人民共和国の悪口を大音量でやるスピーカーです。これは人民軍の大尉に聞いたら、撤去されているとのこと。南北会談が始まってすぐにそういう措置がとられています。

これは、われわれの一行の訪問を報じる労働新聞、五月三日号です。全員が名前入りです。今回、四チャンネル、関西地域だけでしか放送されていないと思いますが、「ちちんぷいぷい」という人気番組で報道されました。

われわれの団員の中に一人、その「ちちんぷいぷい」のコメンテーターが一緒に行っていたのです。われわれがインタビューをしているのを横でじっと聞いていたのですが、その通りをストレートに四チャンネルで報道していました。立岩陽一郎さんという元、NHKのかなりの幹部だった人ですが、NHKを辞めて今はフリーのジャーナリストです。

これは有名な冷麺です。キム・ジョンウン委員長が南北首脳会談に持って行った冷麺です。これを早速、彼はピョンヤンの冷麺屋で食べて、それを四チャンネルで流しています。
多くの人から「テレビに映ってたよー」と言われ、「悪いことはできないなー」と思ったのが、今回の訪朝です。大変、楽しく行かせていただきました。

自然博物館にて

◇伊藤孝司氏の報告
伊藤孝司です。私は日朝関係をどうするのかということをいろいろ考えています。そのきっかけになる取材をしたいと今年は最初の訪朝を二月~三月にかけてしました。その時と、この六月~七月の訪朝との違いをご紹介したいと思います。

五年ぶりにマスゲームをやるということで、平壌市内の大きな広場はどこもこういった練習風景がみれます。今はまだ、実際にマスゲームをやる立ち位置を決める初期の段階で、大きな動作はなかったのですが、指示に従って移動しながら演技をする準備段階でした。

今回行って大きな違いとして感じたのは、中国人観光客がどっと増えていたことです。これは凱旋門の北側にある友誼塔です。朝鮮戦争の時、正式な数字が発表されていないために死者数は正確ではないのですが、一〇〇万人近くの中国人民志願軍が死亡した。その沢山の戦死者を祀るために友誼塔という立派な建物が建てられています。

今写っているのは中国の観光客だと思いますが、その横にたくさんの真っ赤な花束がずらっと並んでいました。私はこれまで行ったことがなかったのですが、これは見なくてはいけないと思い、急遽リクエストして中を見学させてもらいました。

友誼塔は昔からあったのですが、初めて中に入ってみたら実に立派な施設で、朝鮮戦争を大きな壁画で表しています。真ん中に名簿が置かれていて、戦死した中国人兵士の名前が記載されています。毛沢東主席の長男・毛岸英もこの戦争で死亡しています。

ちょうど名簿が開かれていた所に、彼の名前が記載されていました。ここの案内の女性に聞いたら、これまでは中国人の参観者は一日平均二〇〇人だったのに、今は一日平均五〇〇人になっていると言っていました。

もっと驚いたのは、板門店の売店(土産店)が中国人であふれていたことです。今では平壌市内の土産店は、中国人の団体が三つ来ると品物が無くなるほどの爆買い状態とのこと。

板門店の売店で「爆買」する中国人観光客たち

中国との関係改善が急速に進んでいることを観光客の急増が表しています。中国も国連の朝鮮への制裁に加わっていますが、実質的にはなし崩し的にどんどん経済交流は復活しているのではないかと思います。中国との関係改善は急速に進んでいて、今後、韓国やアメリカとの関係より遙かに先行して進んで行くでしょう。

この写真は案内してくれた人民軍の将校です。案内してくれる将校は限られているので顔なじみになるのですが、私はビデオカメラを向けて話しを聞こうとするので、今まで答えてくれる将校は少なかったです。ビデオカメラの前で話せば、そのままで日本のテレビで流れてしまうと考えていたのだと思います。

ところが今回、この将校は何でも答えてくれました。たまたま来ていた日本人と一緒に相当いろんなことを質問したのですが、すべて答えてくれました。韓国との関係改善によって、板門店の緊張状態が相当に緩んだと言えると思います。

「長い間、対決の象徴だった板門店がキム・ジョンウン委員長の大勇断によって首脳会談が行なわれ、朝鮮半島に平和と繁栄の時代が到来することになった」とこの将校は言っていました。

私は、ここからさらに軍事境界線に沿って東の方に一時間ほど行った所にあるコンクリート障壁といわれている所へ行きました。韓国が建設したのはだいぶ前なのですが、朝鮮側からの戦車を防ぐためにコンクリートの巨大な壁をずっと築いているのです。それを見せるために、朝鮮側人民軍の陣地の横に見学施設があります。

写真は非武装地帯です。この手前の所に土が出ている所がありますが、これは朝鮮側のラインです。ここから先が二キロ、二キロ、合わせて四キロの非武装地帯になっています。その中は地雷が敷設されています。以前は、手前の人民軍側のフェンスの所は撮影禁止だったのですが、今回は何も言われませんでした。

しかも驚いたことには、ここの施設で解説するのは今までは将校だったのですが、それが今回、一般兵士だったのです。私は初めて人民軍の兵士にインタビューすることができました。これは私には信じられないことです。責任ある将校であれば、それなりに発言できるでしょうが、私がカメラを向けながらインタビューするので、この兵士は考えながら一生懸命に答えてくれました。

韓国側の動きを説明してくれた非武装地帯の警備員

彼が言っていたことで印象的だったのは、南からの宣伝放送は止まり設備の解体もされた。早い時期に双方の放送設備の撤去はされた。ただ、韓国側は軍事境界線の近くにある演習場での射撃訓練は続けている。それはやはり、板門店宣言に違反しているのではないか、と指摘していたことです。それでも、北南関係改善の方向性は見えてきたと、彼も言っていました。

ですが韓国は、アメリカの動向に左右される。重要なことは韓国だけで独自に判断することはできない。そういった大きな制約がある中でも、それなりに北南関係は進んでいると言えます。

これは祖国解放戦争勝利記念館、つまり朝鮮戦争の博物館です。ここはすごく古い施設だったのですが、キム・ジョンウン時代になって、この記念館と朝鮮革命博物館、アメリカ軍を中心とした住民への集団虐殺について展示した信川博物館。

これら朝米関係がいろいろな形で展示されている博物館が、ことごとく新時代になってからリニューアルされました。朝米関係の改善は、そう容易なものではないとの考えが反映されて、リニューアルされたと思います。

この女性の案内人からは、かなり時間をかけて話しを聞きました。ここは朝米関係を規定することになった朝鮮戦争の博物館なので、この施設が今後どうなるのかを聞きました。「アメリカは朝鮮戦争の時に野獣のようにわが人民を虐殺し、無慈悲な爆撃で大変な苦痛を与えた。この歴史を朝鮮民族は永遠に忘れてはならない。記念館はこれからも存在し続ける」と。つまり米朝関係がどんなに改善されようと、アメリカに対する警戒は揺るぎなく続けると語っています。

先ほど私の本の紹介がありました。去年の秋から書き始めて今年の一月には原稿を渡すことになっていたのですが、六月の訪朝前に作業を終えて、やっと刊行したものです。

朝鮮民主主義人民共和国 米国との対決と核・ミサイル開発の理由 伊藤孝司 著(一葉社/2018年7月刊)

朝鮮の置かれている状況、アメリカとの非常に厳しい対決の歴史、そういう中で核ミサイル開発を朝鮮がしてきたということについて、断片的なことは知っていました。ところがこれらの歴史を全部繋げてみることができなかった。それならば、勉強して解りやすいものにしようということで書いたものです。

これは私が考えうる限りの、朝鮮についていろいろな情報を理解しやすく詰め込んでいます。先ほど記者のインタビューを受けていたのですが、高校生にも理解してもらえる正に教科書だと評価してくれました。

私は今、日本に関するいろいろな取材をしていると言いましたが、日朝関係の改善は、日朝間に横たわる人道問題をいかに進めるのかということではないかと思っています。

私が去年からやっている一つは、残留日本人つまり解放前から朝鮮半島北側で生活している人の取材です。この写真の方は、帰国の機会が三回あったのですが、運命のいたずらでそれを逃してしまって、現在も朝鮮で暮らしています。ストックホルム合意の時に日本人調査があり、その時はまだ数人の残留日本人が健在だったのですが、次々と亡くなられて現在ではこの方お一人しかいらっしゃらないという状況になっています。

私は、残留日本人妻の方を次々と取材する中で、一人の女性が三〇年前に日本の家族から送られて来た手紙を見せてくれました。自分が亡くなったら、棺の中に入れてもらうという大事な手紙です。

そこに、昔の住所が書いてあったのです。それを頼りに探して妹さんが見つかりました。二〇歳年下の妹さんとその長男の方が、お姉さんに会いに行くとおっしゃって、今回お連れしました。つまり、この写真は、五八年ぶりに再会した場面です。

そもそも日本人遺骨問題、残留日本人、そして日本人妻の問題は、日本政府がずっと日朝交渉の中で朝鮮側に要求してきたことなのです。それが安倍政権になって、朝鮮側がストックホルム合意による日本人調査の時に完成していた報告書を日本側に渡そうとしました。

ところが日本政府は、拉致問題についての報告内容が気にいらない、自分たちの思うような内容でないとして、他の課題の報告書の受け取りも拒否したのです。日本人妻たちは、里帰りの希望を表明していたのです。

2016年に結成された「ハムフンにじの会」の日本人妻たち

ですから日本政府が報告書を受け取って、里帰り希望者を帰国させることを決断していれば、この人たちの里帰りはすぐに実現したのです。このように日本政府は人道問題を、拉致問題を理由に切り捨てて来たといって良いと思います。

平壌の中心にある一番新しい高層アパート群(黎明通り)の夜景を撮りに行きました。この制裁下においてもライトアップがずっと続いているし、車の量も全然変っていない。

これは朝鮮が、ずっと自力更生の社会作りをしてきたということなのです。成果が出ているということです。どうしても石油は必要な部分があるのですが、少しでもエネルギーに頼らないということです。国連だとか日米韓の強力な制裁の中においても、わずかでも社会はそれなりに経済発展を続けるという状況が生まれています。

先ほど税関での話がありましたが、私は三月に帰国するとき、税関で切手二〇枚を没収され、三時間やり合いました。今回、ピョンヤン滞在中に、神戸の朝鮮高校の修学旅行から戻った人たちが関空で土産物を没収されたというニュースを知りました。これは納得いかないと思って、ホテルの売店で朝鮮の菓子、それから日本の菓子、ドイツ製のクッキーを買い、日本帰国時に自分から進んで税関に「朝鮮で購入して来た」と申告しました。

税関での検査と没収というのは、経済産業省が判断しているわけで、没収の際にはいちいち税関から経産省の担当者に電話をして判断を仰ぐということをやっています。今回、私が朝鮮から買ってきた品物にどういう対応をするか見るためにやったのですが、二〇分くらい待たされたあげく、全て没収するという判断になりました。

税関では考えられること、すべてやりました。それまで私は、税関とのやり取りは取調室に行かないで沢山の人が見ているカウンターですべて行なうと言いました。これは没収された菓子の写真です。さすがに撮影する時には取調室まで行かざるを得なかったのです。

没収される前に私は「この場で全部食う」と言ったのですが、「それはダメだ、申告した後はそういったことはできないと言われました。やり取りを録音しようとしましたが断られたので、一部始終をメモしました。三つの菓子は任意放棄という形で没収され、その書類のコピーを要求したのですが、それも認められないということで全部手書きで写しました。

私はこういった日本政府の不当な対応については、きちんと抗議をしなければいけない、絶対に容認してはいけないと思います。神戸の没収事件については、いろんな市民団体が税関に抗議しました。ある人は、連日電話したということです。

そういった抗議によって、私も雑誌に記事二本を書いたのですが、その結果、この後、同じように関空に戻って来た大阪朝鮮高校の修学旅行生には何もなかった。ですから非常に細かいことであっても、日朝間で起きたいろいろな問題について、きちんと声を上げていくことが必要ではないかと思っています。

◇M氏の報告
今日、皆さんに私がご報告するのは、一つは「現在の状況をどう見るのか」であるならば、ピョンヤンの経済、人民生活がどうなっているのか、ということも大変興味あることなのですが、それよりもむしろ、朝鮮労働党の選択、路線、方針をきちんと読みましょう。

その中に、何か引っかかるものがあれば、読み取って置く必要があるのではないか。経済制裁が効いたか効かないかというレベルの議論は、横に置きましょう。(ということです。)
二〇一三年の朝鮮労働党の中央総会、去年そして今年の総会の内容、いわゆる並進路線というものは何なのか。この辺はきちんと読んで、現状に至る一つの戦略的な方向性を共和国がどのように作ってきたのか、ということについても一応確認してきました。

そうした具体的な事実の上に立って、もう一つ、大変重要な点は、今の状態を半島の状態として見るだけではなくて、日本の運動にとってどういう関係があるのか、もしくは日本の運動に課せられた任務は何なのか、という風な視点で見ていかないと、どうしても大きな意味での評論に流れるのではないかと思います。

六月二三日の慰霊の日、翁長さんは言いました。「アジアの大きな平和の流れ」とまず提案されて、その大きな平和の流れに逆行するのが、辺野古の新基地建設だ。現状の平和に向けた南北のこの間の動き、米朝の動き、そうしたものを沖縄は沖縄からちゃんと見ている。沖縄の人々は今、ものすごく関係しているのです。

もっともっと、抑止力という言葉が日本から無くなってくれれば、辺野古の基地はいらなくなるだろう。安保もいらない。

二年前、二十歳の女の子が殺された時、全海兵隊は沖縄から出て行けと。と同時に日米地位協定は改定しろと提案している。こうした流れと今の流れが、ちょうど時代的に二年遅れて重なって来ている。

これは日本の闘っている人たち、分けても沖縄の人たちには、すごく大きな後押しになっている。みんな、何で今、アジア最大の基地を創らなければいけないのか? 平和に向かっているのではなかったのか? 平和に向かっているのは、南北とアメリカと中国とロシアだけだ。日本は外だ。というような、ちょっと的外れに思われる議論も含めてあります。
向こうで話してきた事柄は、すべて実践的かつ具体的。では、私たちは何をしたら良いのか?

人の国の革命のことをあれやこれやと言い募る論調もずいぶんと読みました。朝鮮民主主義人民共和国は社会主義なのかどうか、という議論も日本の新左翼は好きですから、よくやっています。それはもう、はっきり言って社会主義でしょう。社会主義とは何かという議論はまた別の議論ですから・・・。

こういう意味においては価値観が全然違う。物の見方が違う。当然ですけど、そこに住む人たちの意識性も違う。その違いというのを前提に共和国という国を見ていかない限り、私たちは日本に住んでいると、どうしても日本の主たるイデオロギーや価値観に足をすくわれて行くのではないか、というふうに考えています。

「平和に向かって」という意見・評論は非常に多いと思います。では、どういう平和を創るのかという点についての議論は、まだ、始まっていないはずです。私たちが創っていかなければならないのは、どういう平和を創るのかという中身を議論する必要がそろそろ出始めているのではないかと思います。

確かに、南北対決が一定、改善の方向に向かい、米朝対決が改善の方向に向かいました。であるならば、その後の東北アジアの友好と平和と繁栄、この中身を創っていく。これが、今、提案している私の考え方です。それを一つの柱にしながら、そのための前提条件としては、日本の国が、日本の民衆が、何を、憲法改悪を許さない。日本をこれ以上、武装化させない。アジアの最大の脅威の国家としての日本を安倍に創らせない。

そういう意味で言うと、非常に簡潔に安倍政権打倒へと。これを逆に言うと、東北アジアの大きな意味での平和と共存、繁栄の一つの柱になっていく。それは事実であると私は考えています。

それともう一つ、ほとんど触れられないのですが、拉致問題についてどうなのかという議論をするべきだと思います。これを避けていたら、私どもは勝てません。

確かに、二〇〇二年の日朝会談以降、あそこに居たのは平沼と安倍晋三さん。二〇〇四年からいっせいに拉致問題が政治焦点化していきます。「起ち上がれ日本」、これが人道的な問題として拉致問題が提案されたのですが、二〇〇八年になったら在特会が出てきて、これを完全に政治問題化して、本来の拉致問題解決の見通しから、もしくは人道的な見地からの問題提起が政治的な排外的戦闘の一つの柱になっていく。

それがずっと続いた結果、ものすごく共和国に対するイメージが悪くなった。そして日本は、ヘイトの支配する社会へと変貌していった。

これを私たちはどう見るのか。一つ一つの歴史的な経緯を踏まえて、多くの人たちが疑問に思っている。例えば、日朝友好を言えば、「拉致問題はどうするんですか」と必ず返ってくる。これに対して、こういう経緯があって、こういう解決の方法しかないんだと言わないと、沈黙ではヘイトに勝てない。この点については、蓮池透さんが実に素晴らしい発言を六月一二日以降になさっている。

拉致問題解決で日本側が負っている最大のカードは、戦後補償の問題を共和国と直接話し合うことだ。何でトランプさんに頼む必要があるのか。ということを蓮池さんはおしゃっている。

トランプさんはつぶやいたそうです。「おまえのところのことはおまえのところでやれよ」と。「トランプさんに拉致問題をゆだねること自体がおかしい。筋が通らない。だったら、植民地支配の責任をまず最初に日本の側から提案すべきだ。そして、そのことの中で、拉致問題解決の方途を考えていけば良いのではないか」と蓮池さんはおっしゃっている。

私はその通りだと思います。こういう意見をつくっていかないと、日朝の連帯、南北の平和的・自主的な統一、そして現状における、言うなれば、朝鮮・韓国の人々にたいする偏見と差別、これすべて、日本の植民地支配の中に根拠があり、その後の日朝・日韓関係の中に根拠があるわけです。この世論を変えていく。変えていくには真実と方向性、これがなければ変らないと思います。

避けて通ってはいけない議論は拉致問題です。拉致問題については、蓮池さんの長々としたインタビューがあるのですが、これを是非ご一読いただきたい。これがもう一つの柱になります。

拉致問題については、当時の共和国のトップ・キム・ジョンイル総書記は、国家として謝罪している。そして、特別チームを作って検証すると言っている訳です。日本は先の侵略について、国家として共和国にたいして謝罪したのか。何もしていないわけです。

近頃の外交文書というのは、私は得意ではないのですが、不可逆的とかいう言葉が多いですね。あんなのありえるわけがないではないですか。国と国との関係の中で、時代が変り、情勢が変わり、指導者が代われば、中身が変わるわけです。

私は、そういうような事柄をずっと考えながら議論を繰り返して来ました。議論を繰り返して、一致点を見つけていくこと、何が平和なのかということと、拉致問題を避けて通るな、われわれの側から打って出ようということ。日本の運動の中で、世界的な排外主義勢力の台頭を押しとどめる運動の一環として、日朝連帯があり、今の状態を私たちの運動の転機にしていけば良いのではないかと考えています。

実は、勉強しすぎて訳が解らなくなってしまいました。というのは、ここにあります朝鮮労働党の中央全員会議の資料、ピョンヤン宣言、ストックホルム宣言、南北首脳会談の三、全部読みました。

二〇一四年のストックホルム宣言については、一つだけ、皆さんにお知らせしておきたいことがあります。あの時、日朝関係はうまくいくかなと思われました。ところが日本は、翌年の二〇一五年一二月二七日に同じく後戻りできない合意として慰安婦問題は日韓の二国間で解決するとの合意を韓国と取り付けているわけです。一四年に共和国とストックホルム合意をして、一五年には慰安婦問題を日韓で合意する。この二つが、安倍政権のもう一つの政策混合性とみることができるのではないでしょうか。

一六年になるとトランプが出てきますから、これまでとは全然違う状態が生まれます。一七年、一番儲けたのは誰なのか、と言うと実はアメリカの軍需産業でした。平均六一%の株価が上がっています。アメリカの金融資本の中で、これほどの好景気に沸いたのは、ここ一〇年なかったと言われています。

金融資本の動向と朝鮮情勢、これもきちんと見る必要があるのではないでしょうか。一番トランプさんを支えているのは、産軍官複合体、それ以外の産業もほとんど全面的になっていますから、この辺がアメリカという国を知る一つの「入り口になっていけば良いかなと思います。

アメリカという国は九・一一以降変わりました。それ以前はSNS六八・四基本政策を五〇年、冷戦下における国家補償体制をきちんと文章化しています。SNS六八というのがアメリカの基本政策です。九・一一以降、アメリカの戦争は変わりました。

私は共和国が核を持ったのは当然だと言いました。なぜか? イラクは大量破壊兵器をもっていないにも関わらず、しかも、国連安保理の決議もなしにアメリカによって滅ぼされたわけです。

イラン・イラク戦争の時に、イラク、フセインを応援したのはアメリカではないですか。ビンラディン率いる彼らを支援したのはアメリカではありませんか。そういうような視点からいけば、九・一一以降のアメリカの本質を見る必要がある。

あと三年、五年、一〇年で日本の政治も変えていかなければならない。日本の政治を変えていく時には、ただ単に日本の政治を変えていくだけではなく、東南アジア全体の友好・平和・繁栄のために変えるのだという、「ために」を一つプラスして、日本の運動を作っていく必要があるのではないか。そのように考えています。以上です。

朝米が「戦争ゲーム」終焉を誓約した「世紀の会談」偏見と、無知のキシャクラブメディアの報道 浅野健一
二〇一八年六月一二日(シンガポール時間)に始まった二人の一三秒にわたる握手は、まさに「世紀の首脳会談」のはじまりだった。

金正恩朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)国務委員会委員長とドナルド・トランプ米合州国大統領の首脳会談はシンガポールの南部セントーサ島のホテルで開かれた。私はシンガポール政府が発行した取材証を得ることができ、世界各地から駆け付けた二五〇〇人の記者仲間と共に取材した。日本以外の国には記者クラブ(英語でkisha club)制度がないので、フリーの私も手続きを踏めば差別なく取材ができる。

一九四八年に建国した朝鮮と米国の首脳会談は初めて。両首脳は朝鮮と米国の国旗が交互に六本ずつ掲げられたホールで握手。その後、会談場に移り、通訳だけを入れた一対一で、三八分の会談。拡大会合、ワーキングランチを行い、午後には、朝鮮半島の安全保障、朝鮮戦争の年内終結を目指すなどとする共同声明の署名のシーンを報道陣の前で行なった。

この共同声明を受けて、トランプ大統領の命を受けたポンペオ米国務長官らが七月六、七日、朝鮮半島の非核化に向けた具体的な措置を議論するために平壌を訪問。長官は「生産的な協議になった。ほぼすべての重要な分野で進展があった」と述べた。

安倍政権に批判的な朝日新聞、東京新聞も含め、日本のキシャクラブメディアは「食い違う米朝」などの見出し記事で報じているが、非核化に向けた具体的な措置を議論するためにソン・キム駐フィリピン大使ら専門家数人と訪朝した意義は大きい。

七月二三日、朝鮮の平安北道鉄山郡東倉里の西海衛星発射場で解体作業が確認された。また、朝鮮戦争で亡くなった米兵の遺骨の一部が七月二七日、朝鮮から米国に返還された。

七・二七は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれてから六五年となる節目の日。朝鮮では祖国解放戦争勝利記念日。トランプ大統領はツイッターで「ありがとうキム・ジョンウン」と書き込んだ。

日本のメディアは朝鮮に対し、「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を求めているとだけ報じるが、朝米が北南・朝中首脳会談を踏まえ、今回の会談で合意したのは「朝鮮半島の完全な非核化である。

朝鮮の核の放棄だけでなく、韓国にある米軍の核兵器も撤去するということだ。北東アジアの非核化を展望するためには、北南朝鮮に隣接する日本の沖縄などの米軍基地にある核兵器も撤去されなければならない。

朝鮮は米国の脅威がなくなれば核兵器を廃棄し、核兵器禁止条約に参加すると表明している。戦争被爆国の日本が、中朝の脅威を口実に、米軍の「核の傘の下」にいる必要性があるのかが問われている。

内外のマスメディアは「急激な変化」と報じてきたが、そうではない。韓国の労働者、市民、学生による文在寅政権の誕生があった。朝鮮の党、政府、人民はこの間、米国を交渉の場に引き出すために、「核とミサイル」の開発に成功した。昨年十一月二九日のICBM試射の成功で、米国に到達することが証明され、朝鮮は昨年末、核強国になったと宣言した。米国は、世界の指導者の中で安倍首相だけが願ってきた朝鮮への先制攻撃をあきらめざるを得なかったのだ。

私はメディアセンターで両首脳の握手、二人がお互いの背中に手を添えるのを見て感動した。七 ~八回この動作を行った。こんなに親しい関係。金正恩委員長の年配者を敬う礼儀正しさ、礼節、そういうものがテレビの画面にも現れていた。「朝鮮の人たちと海外の同胞たちが待ち望んでいた日がついに来た」と感慨深かった。

私は一九九八年から一四回訪朝し、朝鮮の人たちが一九五三年に休戦になったままの朝鮮戦争を終結させ、停戦協定を平和協定(条約)に変え、朝米国交正常化の実現を望んでおり、そのために米国まで届くICBMを開発してきたことをよく知っている。世界中のコリアンも非戦・平和の朝鮮半島を望んでいる。

朝鮮戦争の停戦合意では、米国は三ヶ月以内に平和協定を結ぶはずだったが、六五年間反故にしてきた。なぜ欧米人が呼ぶ「極東」・北東アジアの韓国と日本に米軍基地と米兵が存在するのかを考えるべきだ。

安倍首相の側近、西村康稔官房副長官は七月三〇日のテレビで、「そう簡単に(朝鮮戦争の)終戦宣言をやるべきではない」と言い放った。首相は八月六日、広島市で三日のシンガポールでの日朝外相の「接触」に触れた上で、「最後は私自身が金委員長と対話し、新しい日朝関係を築いていかなければならない」「国際社会と連携を図りながら、主体的に取り組んでいかなければならない」と語った。

元A級戦犯被疑者の孫である安倍氏に「主体」という言葉を使う資格はない。二千万人以上の無辜の民を死に至らしめたアジア太平洋諸国への侵略と強制占領の責任をどうとるかが今問われている。

*浅野さんが配布したレジメの一部を掲載し、浅野さんに加筆していただきました。浅野さんの朝米首脳会談の取材報告は朝鮮新報HPで読めます。

【シンガポール取材報告】日本以外の世界が歓迎した朝米「世紀の会談」/浅野健一