日本経済の抜本的改革を提議する

小西隆裕

今問われているのは、アベノミクスの批判一般ではない。それに代わる新しい日本経済の抜本的改革案だ。

外資主導の日本経済のアメリカ化

アベノミクスの目的についてはいろいろ言われている。その本当の狙いが日本を「米国とともに戦争できる国」にすることだと見る見方など、的を射ていると思う。だが一方、アベノミクスそれ自体に経済的狙いがあるのも事実だ。

安倍首相が自らの経済政策の目的について言う時、それは周知のように、日本を「世界で一番企業が活動しやすい国」にするというものだ。

事実、量的緩和、財政出動、成長戦略、アベノミクス三つの矢は、いずれも、企業、それも大企業のためのものだ。利益は大企業、富裕層から低所得層へとしたたり落ちて行くという「トリクルダウン理論」がこの政策正当化のための根拠にされていること自体、その何よりの証拠だ。

この間、アベノミクスによって大企業が受けた恩恵は大変なものだ。その収益と内部留保の倍増、それにともなう高級マンションなど富裕層向け市場の活況などにそれは現れている。他方顕著なのは、個人消費の停滞、勤労者の収益減少など、絶対多数「99%」の貧困化だ。

実際、量的緩和に基づく円安と財政出動、法人税大幅引き下げ、雇用、農業、医療など各種構造改革、そして自助、共助を増やし、公助を減らす社会保障改革、等々が経済活動と国民生活にもたらした影響はかつてなく甚大だ。

その上で、この「改革」には黙過できない特徴がある。それは「アメリカ化」だ。

「働き方改革」での「高プロ制」導入、種子の開発、供給に民間の参入を認める「主要農作物種子法」廃止、水道事業など各種事業の運営権を民間に売却する「コンセッション方式」導入、等々、この間の事業方式のアメリカ化とそこへの米系外資の参入は、すでに外資主導になっている日本経済のアメリカ化をさらに一段と促進するものだ。

「世界で一番外資が活動しやすい国」。まさに「アベノミクスの正体見たり」ではないだろうか。

「トロイの木馬」

今日、戦争と敵対から平和と友好、繁栄へ、東北アジア新時代の到来が、南北朝鮮の平和と繁栄、統一への希求、そしてグローバリズムからファーストへ、覇権のあり方転換への米国の企図をともに中にはらみながら、その「同床異夢」のせめぎ合いを通して実現の運びになってきている。

この歴史の新時代にあって、米国が「平和」とともに前面に押し出してきているのが「繁栄」だ。ポンペオ米国務長官は、朝米関係改善の証として、米国企業の朝鮮経済への参入を大きな「プレゼント」であるかのように強調した。

だが、それは「プレゼント」ではない。「トロイの木馬」に他ならない。朝鮮経済の繁栄ならぬ改革開放と資本主義化、アメリカ化。そこにこそ「米国企業参入」の狙いがあると思う。

トランプは、その大統領就任演説で、各国の国益第一(ファースト)を認めると言った。
ただし、その国の国益が米国の国益と合致するという限りでだ。「各国経済のアメリカ化」は、この「詭弁」成立のための大きな要件になっている。

世界中の国と国益を否定したグローバリズム覇権から各国の「ファースト」を肯定しながら、それを「アメリカファースト」と一体化させるファースト覇権へ。トランプ米国は、この覇権転換劇の舞台を東北アジア、それも朝鮮に設定した。朝鮮経済のアメリカ化は、まさに新覇権の成否を問う大きな鍵となるものだ。

ところで、その朝鮮経済のアメリカ化促進のため、アメリカ化された日本経済を国ごと「トロイの木馬」として朝鮮へ送り込むのは、弱体化し自分はカネを出したくない米国にとって切実だ。

トランプが日朝関係の改善、それに向けた拉致問題の解決に少なからぬ関心を寄せているのは、そのために他ならないのではないか。

自立、均衡、革新の日本経済の構築を!

朝米の「同床異夢」のせめぎ合いに動員される利用物、アメリカ化された日本経済は、日本と日本国民にとってはいかなる意味を持つか。

それを知るために、何よりもまず問われるのは、アベノミクス自体の検証だ。この5年間、アベノミクスが生み出したのは何だったか。それは、累積された大企業の内部留保と日銀が購買した国債の山、そして何より深刻な日本経済の極度の不均衡だ。大企業、大都市へ、富の一極集中と広がる一方の格差と貧困。打ち続く技術革新力の低落。そして急速な少子化、人口減と人手不足。等々。個人消費、設備投資の低迷など、日本経済長期停滞の要因に満ちている。

問題の根因は明確だ。それは、アベノミクスが経済政策としての体をなしていないからだ。

もともと経済政策の目的は、自分の国と国民のため、自国の経済をどうつくるかに置かれなければならない。なぜなら、経済の基本単位は、どこまでも人々の生活単位である国であり、国を基本単位に世界が連結し協同しながら、その下で、ヒト、モノ、カネが国を基本単位に地域や世界全体を回っている生き物、それが経済だからだ。

アベノミクスは、この基本中の基本に基づいていない。その目的が日本を「世界で一番外資が活動しやすい国」にすることに置かれているところ自体にそれは明瞭に現れている。

経済の基本単位を国に置かず、その目的を自分の国と国民のため、自国経済をどう築くかに置いていないため、アベノミクスには日本経済を築く上でもっとも重要な原則が欠けている。

一つは自立の原則だ。「自国の経済は自分の頭、自分の力で」。この原則がなければ、国の経済を築くという意思自体が生まれてこない。米国と米系外資に振り回されていること、ここにこそアベノミクスのもっとも根本的な問題点がある。

もう一つは、均衡の原則だ。先述したように、ヒト、モノ、カネが自律的に回転する生き物である経済にとって、均衡は生命だ。富が遍く行き渡り、消費と生産がうまくかみ合って、すべての経済要素が円滑に連携して回るようにすることにこそ、最大の神経、力が注がれなければならない。拡大する格差と不均衡が野放しにされ、経済が回らなくなっていること、ここにもう一つの致命的問題点がある。

最後にもう一つ、革新の原則だ。経済を活性化させ、発展させるためには、科学技術の革新が不可欠だ。次世代の基幹産業を興すような技術、さまざまな産業分野にまで波及していく力をもつ「コア技術」を生み出すため、「効率」を犠牲にしてでも取り組む革新第一の原則が問われている。

これらもっとも基本的な原則が欠落したアベノミクスを果たして経済政策だと呼べるだろうか。

国民主導、東北アジア協同で!

国の経済を築く上でもっとも重要な問題の一つは、誰の主導で築くのかという問題だ。

アベノミクスにおいてそれは、米系外資に委ねられた。しかし、いくら外資にカネがあり、世界的なネット網やノウハウがあるからと言って、それは完全に誤りだ。日本経済の今日の惨状がそれを何より雄弁に物語っている。

では、誰が主導すべきなのか。日本の大企業、財界か?それは無理というものだ。これまでアベノミクスに加担し、追随するだけだった彼らにそんな大役が務まるはずがない。では、中小企業か?それもまた、別の意味で無理なのではないか。

ならば一体誰なのか。それは、日本経済を自らの生活の切実な要求とする日本国民以外にないと思う。国の経済の主体は国民だ。企業ではない。企業も、人間として、国民として、その一員になってこそ、経済の主体になることができる。

国民主導で地域や職場末端から国民皆の意思を発揚、集大成して国の経済政策を立て、それを企業と地域、中央と地方一体となって執行していく、一つの国民的運動として経済を動かし発展させる。この言葉の真の意味での民主主義によってのみ、経済の抜本的改革もあり得ると思う。

今日、日本経済の抜本的改革案を考察する上でもう一つ重要だと思うのは、東北アジア新時代という時代認識に立つことではないかと思う。

もはや時代は、米覇権の時代ではない。トランプの「アメリカファースト」が全世界の反発、排撃を受けているのはその何よりの現れだ。

この覇権崩壊の時代、「同床異夢」で進む東北アジア新時代にあって、米「ファースト」新覇権を支えるため、南北朝鮮、東北アジアに敵対するのは論外だ。日本は、「新時代」当事国として、当然、東北アジア協同の道に進むべきだ。そこにこそ、日本経済抜本的改革の道があると思う。