「日本の水」

魚本公博

日本の水が問題になっている。私自身、「議々論々」のコーナーで、この問題を散り上げてきたが、朝鮮に居る者として、感ずることを述べてみたい。

それと言うのも、朝鮮にいると、日本の水の「美味しさ」をつくづく思うからだ。決して朝鮮の水がまずいと言っているのではない。朝鮮には「朝鮮の水」の良さがあり、「美味しさ」がある。しかし「お茶」(緑茶)がいけない。日本からのお客さんに日本のお茶を頂くことがある。久しぶりのお茶。期待して煎れる。だが香りが出ない、固い感じがする。すなわち硬水なのだ。中国ではウーロン茶、インドでは紅茶が、英国で紅茶にミルクをたっぷり入れた飲み方になるのも頷ける。

日本の「お茶」は「日本の水」と切っても切れない関係をもっていることを痛感する。そこから生まれた「茶道」。そして「わび、さび」の文化。日本の「美味しい水」なしにはありえない。「日本食」だって、そうだと思う。その「日本の水」が売られようとしている。

その理由として、水道維持のためには広域化(規模拡大)してコスト削減しなければならないという。しかし、本当にそうなのか。と言うのも、私の叔父さんが別府市の水道局に努めていて、子供の頃(5、60年代)、水源調査で鶴見山麓にある各地の水源地によく連れていってもらったものだが、特別な施設はなかった。湧き水や渓流の水を溜めて引き込むだけの簡単な設備。それで当時人口14万人に、膨大な数の観光客の水を解決していた。そして美味かった。

「規模を拡大して効率化をはかる」というのは、ウソ臭いとの思いをぬぐえない。

日本では、給水人口5000人以上の「水道」と、それ以下100人までを「簡易水道」、さらに100人以下の「小さな水道」に分類される。水の豊富な日本では、「小さな水道」や「簡易水道」で集落ごとに湧き水や渓流から取水して水道管で流せば安価で安全で美味い水をいくらでも給水できるのではないか。市規模でもそれに準ずる。東京だって江戸時代は神田上水、玉川上水で渓流を引き、それで当時世界最大規模の住民の生活水を解決しタダだった。

素人考えかもしれないが、少なくとも「広域化(大規模化)して効率化する」というのはおかしい。「日本の水を売る」というのは、日本の「美味しい水」を売ることなのであり、そうした水あっての「日本文化」を売ることなのだと思う。数字に騙されることなく、日本の実情にあった解決法で「日本の水」を守らねばと切に思う。