東大安田講堂攻防戦五〇周年を迎え、「戦後日本の革命」を考える

若林盛亮

この一月、東大安田講堂攻防戦五〇周年を迎える。一九六九年一月一八、一九日にかけて行われたこの闘いは、「七〇年安保決戦」の雌雄を決する天王山だった。

私事になるが当時、学生活動家でもなかった私だが、私は同志社社学同赤ヘル部隊の一員として志願参加した。安田講堂のバリ封鎖解除の危機を他人事として私は拱手傍観できなかった。安田講堂のバリ封鎖解除は、自分のバリケード、心の拠点を失うことだったからだ。全国から結集した赤、白、青、緑のヘルメットの学生たちも同じ思いだったと思う。私はその熱気を攻防戦の生々しい現場で体感した。

私たち同志社からの部隊は講堂内階段を担当したが、一日目は特にすることがなかった。それで私は勝手に明大の指揮者のいた赤ヘル担当のバルコニーに行った。そこでは放水を浴びながら火炎瓶、投石の学生たちが闘っていた。一月の真冬に冷たい水を浴びるのは辛い。ましてや交代時に小さな石油ストーブの前でいったん暖をとったらそこを離れるのはさらに辛い。「つぎっ」の指揮者の指示で外へ飛び出すのはとても決心が必要だった。ジャンパーからはまだ乾ききらない水分が湯気を立てていたが、誰も文句一つ言わずバルコニーに飛び出て冷たい放水の渦中に飛び込んだ。そこにあったのはまぎれもない自己犠牲を惜しまない闘う学生の姿だった。この体験はその後の赤軍派参加、よど号ハイジャック闘争へと私の背中を押した一つの要因だったことだけは断言できる。

結果は、二日間の激戦の末「安田砦」は陥落した。その後、全国の大学にバリケード封鎖の闘いが拡大したが、ことごとく機動隊暴力の前に「封鎖解除」、敗退を余儀なくされ、全共闘、新左翼は活動拠点を失い、「七〇年安保決戦」方針をめぐる党派間、党派内の争いもあって次第に運動は後退局面に向かったことは周知の通りだ。

当時、私たちをベトナム反戦反安保の闘い、学園闘争に駆り立てたものは何だったのか?

個々それぞれ多少の違いはあれ、憲法九条平和国家・日本が日米安保のためにベトナム戦争に加担する、そんな「戦後日本の平和主義」とは何だったのか? 戦争加担の一方でアメリカン・ドリームを追求する高度経済成長下の日本において大学で学問をするとは何なのか? 一言でいって日米安保を「国体」化し「米国についていけば繁栄がある」としてきた戦後日本への根元的疑問を突きつけた闘いではなかったのか? しかし当時は、このことに迫ることなく闘いは挫折、敗北を余儀なくされた。

しかし闘いは終わってはいない、今再び戦後日本への根元的問いが突きつけれている。

東北アジアは今、新しい時代への激変の時にある。

南北朝鮮が戦争と敵対、分断から平和と協力、統一へと動き、朝米が戦争状態終結に向けて大きく動いている。この時にあってわが日本国のみが「蚊帳の外」状態から脱け出せずにいる。日本国・安倍晋三首相はひたすら恭順姿勢を示してきたにもかかわらずトランプからも無視され、習近平やプーチンからは侮られている。それどころか徴用工問題や慰安婦問題など歴史認識を新しい時代に即して正すことを迫られてもこれを拒否し、日韓関係を最悪にするなど時代からますます遠いところに日本を持っていこうとしている。

「米国についていけば何とかなる」戦後日本の幻想にしがみつくことは日本を破滅に追いやるだけだ。いまこそ「戦後日本を革命する」新たな闘いが問われる時だ。五〇年前の私たちのように、古い政治を打破する新しい世代が新しい思考方式で必ずや闘いに立つ時が来ると私は信じたい。老いたりといえど私たちの世代もまだ引退するわけには行かない。

東大安田講堂攻防戦参戦者の一人として、闘いの継承発展を切に願わずにおれない。

(寄稿「救援」597号)