【今月の視点】朝鮮の新戦略と東北アジア、日本はこれにどう対するか

小西隆裕

先の第二回朝米首脳会談物別れに対する朝鮮側の意思が、4月12日、朝鮮の最高人民会議において金正恩国務委員長の施政演説として表明されました。この朝鮮の新戦略とそれがもたらす東北アジア新時代の新たな展望について考察しながら、日本がこれにいかに対応すべきか考えてみたいと思います。

1 朝鮮の新戦略をどう見るか?

朝鮮の新しい戦略が戦争と敵対の古い時代への回帰を志向しているのでないのは言うまでもないと思います。第三回朝米首脳会談への門戸を閉じていないこと、南北朝鮮の平和と融和、繁栄に引き続き、一層積極的であることなどにそれは端的に示されているのではないでしょうか。

朝鮮の新しい戦略が、また、非核化をめぐる朝米の攻防で制裁解除の実現を目指すものでないのも明らかではないかと思います。制裁解除問題などに関わりなく自力で国の富強を勝ち取ると施政演説が結束されているのは、その何よりの証左ではないでしょうか。これを建前上の言辞と捉え、本音は制裁解除を求めているなどと考えると、朝鮮の新戦略を本質上、根本的に見誤ることになると思います。

では、朝鮮の新戦略は、どのようなものだと言えるでしょうか。それは、施政演説をそのまま読めばよいことではないかと思います。すなわち、第一に、社会主義強国建設を、現段階にあって、どこまでも自力自強、自力更生で実現するというものであり、第二に、南北朝鮮の統一を米国の指示で遅らせたりするのではなく、あくまで民族自主の原則で民族の総意が集約されている南北宣言を徹底的に履行することによって達成するというものであり、第三に、自主と平和を尊重するすべての国、勢力との連帯と団結を全方位で強化するというものだと言えるのではないかと思います。

2 東北アジア新時代の展望は?

朝鮮の新たな戦略が上記のようなものになった場合、東北アジアにもたらされる事態はどのようなものになるでしょうか。

そこで問題になるのは、米国の戦略です。米国がそれに反対して出てきた時、事態の展望はどうなるかということです。

結論から先に言えば、展望は、あくまで朝鮮の新戦略をめぐっての攻防として展開されるようになるのではないかと思います。

なぜそうなるのか。それは、米国としてはそうする他ないからです。

何よりもまず、米国が時代を戦争と敵対の古い時代に逆戻しすることはできません。なぜなら、朝鮮が米国を攻撃全滅させることのできる国家核武力をすでに完成させているからです。米国は、「未完成」だと言っていますが、その保証はどこにもないと思います。

次に、米国が朝米の攻防を非核化をめぐる攻防に持ち込もうとしても、それは不可能だからです。朝鮮はいかなる制裁にも耐えうる力をすでに持っています。よく、朝鮮は経済的に困っている、だから、経済でつれば、屈服させることができると言いますが、この数十年間繰り返されてきたそうした論議はすべて空論になってきました。

一言で言って、東北アジア新時代は、米国が覇権国家としての力を行使して、朝鮮を思いのままにできる時代ではないということです。

その結果、東北アジア新時代が古い戦争と敵対の時代に逆戻りすることはなく、時代は、朝鮮の新戦略をめぐる朝米の攻防を軸として、より高い段階に進展していく以外にないのではないかと思います。

この場合、「朝米の攻防」を「南北朝鮮と米国の攻防」と言い換えることもできるのではないでしょうか。なぜなら、文在寅政権を成立させた「ろうそく革命」の主体である韓国国民と朝鮮の意思は、同じ民族というところで大きく重なっていると言うことができると思うからです。

3 日本はこれとどう対するか?

日本は、この間、東北アジア新時代の進展に対し完全に「蚊帳の外」でした。

それどころか、時代の主役である南北朝鮮と日本の関係は最悪になっており、第二回朝米首脳会談の物別れを日本が誰よりも喜ぶという情況になっています。

なぜそうなっているのか。理由は明確だと思います。

一つは、日本の対米従属がかつてなく深まっているからです。

安倍政権の米国言いなりは、歴代自民党対米追随政権にもなかったものになっています。米国に言われるまま、日本の軍事は、米覇権軍事の下請け、補完軍事となっており、経済は、米覇権経済に完全に組み込まれ、米系巨大外資が欲しいままに巨利をむさぼることのできる対象になっています。

そうした中、今、米国は日本を東北アジア新時代をめぐる朝米の攻防に軍事、経済など全面的に引き入れ、弱体化した自らの覇権力を補完させようとしています。

この対米従属の深まりが日本の東北アジア新時代への敵対を生み出す根本原因になっており、それがさらなる対米従属の深まりを結果するという悪循環が生み出されています。

もう一つの理由は、日本自身が古い歴史認識そのままに、かつての対朝鮮植民地支配を総括できないでいるからです。

日本の対アジア、対朝鮮覇権の歴史に対する、日本とアジア、朝鮮の認識の対立は、戦後70有余年一貫して続いてきました。それは、覇権の存在自体が、世界的範囲で問われてきている今日、一層切実な問題になっています。

東北アジア新時代に日本が正面から向き合い、その当事国として自らの役割を果たしていくためには、自らの対アジア、対朝鮮覇権を正当化する古い歴史認識を改めるとともに、覇権そのものが崩壊する現時代に対する正しい時代認識を持つことが決定的に問われているのではないかと思います。

しかし、日本の政治は、野党まで含めて、以上二つの問題に対して、あまりにも無自覚なまま、それとの関わりを避けてきたのではないかと思います。

東北アジア新時代が朝鮮の新戦略により、新たなより厳しい高い段階を迎えている今日、日本が引き続き「蚊帳の外」でいることは許されません。米覇権の下、かつての覇権の「夢」を捨てきれず、南北朝鮮と敵対し、東北アジア新時代に背を向け続けるのか否かが問われているのではないでしょうか。

自らがその当事国である日本にとって、東北アジア新時代は、自身が米覇権の下、覇権の「夢」を追い続けるのか、それともそうした道自体の見直しを図るのか、自らの進路を選択する重要な契機、試金石だと言えるのではないかと思います。

今日、米覇権の崩壊が誰の目にも明らかになってきているこの時代的局面にあって、もっとも切実に求められているのは、日本政治自体の転換、「新しい政治」への転換ではないでしょうか。古い対米従属の自民党覇権政治からアジア、南北朝鮮とともに進む新しい国民主体の自主政治への転換、日本政治のあり方のこうした歴史的転換こそが今痛切に問われているのではないかと思います