『共有地平』を求める時

魚本公博

朝日新聞(7月10日)の「文化・芸術欄」に「リベラルは共闘下手?」という解説記事があった。書いたのは編集委員の近藤廉太郎氏。記事は、立命館大学の松尾氏。

近藤氏は、その原因を「左派やリベラルは自分が一番偉いと思っているので衝突する」(著述業の浅羽通明氏)とか「自己の敗北によって勝利する」(1989年にチェコで大統領になった劇作家ハヴェル)などの言葉を援用して、左派・リベラルの唯我独尊的な考え方に求める。

しかし、最近の左派・リベラルの学者や論客が提起する問題提起は、そういうものではないのではないか。彼らは、真剣に日本の行く末を考えている。疲弊する地方を国をどう建て直すのか。景気縮小が人々の生活を圧迫する現状をどう打開するのか。前回紹介した専修大学教授・岡田憲治氏も安倍自民に連戦連敗する現実を直視しながら、勝利の方途を真剣に考え問題提起する。

岡田氏は、左派・リベラルに人気がない原因を「正しいことを言って、分かってくれたらそれでいい」という考え方に求める。それは、近藤氏が指摘するものに似ているが、決定的な違いがある。岡田氏が「俺はバカだった」(自分もそうだった)という自省に基づいて状況を切り開くための主体的な問題提起をしているのに対して、近藤氏は大新聞の編集委員として極めて評論家風に言っていることだ。その結びは、「負けたとて、それがどうした風が吹く」。その自嘲的、開き直り的な結論はいただけない。

結局、この問題は、民意に対する態度問題に帰着すると思う。よく言われる「この国民にして、この政権」という言葉。すなわち、「民度が低いから、こんな政権を選ぶのだ」という考え方に対して、「イヤ、民意を尊重し何を求めているのかを考え、それに応えることをしなければ、左派・リベラルが人気を得て勝利することはできない」と見る考え方の違いである。

その岡田氏が東京新聞に「立場が逆でも『共有の地平』を」という文章を寄せていた。そこでは、「なぜリベラルは負け続けるのか」という自身の問題提起に対する読者の反応の中で、「とくに、うれしかった」として右派的な人から、「この著者とは政治スタンスは逆だが、○○○の部分は分かるし、そこから共有地平が見いだせるのですね」という返事をもらったことだ、と述べている。そして、「政治の成熟って、実はそういう共有地平を探し続けることなのかもしれないと思います。憎しみから生まれるものは本当に何もないと」と結んでいる。

共有地平。「イデオロギーよりアイデンティティ」に通じる問題。人々の関心は左右のイデオロギーよりも前に生活問題である。そして生活問題は、必ず人々の拠り所である国のあり方、その政治を問うものになる。岡田氏が、「政治の話はするな。ゼニ・カネ(生活)の話しだけしろ」と刺激的に問題を提起したのも、人々にとって切実なのは「ゼニ・カネ(生活)」の問題であり、そこから切り込むことで、国のあり方を、政治のあり方を皆が考えて行く可能性を考えてのことだと思う。

今、起きている、左派・リベラルの学者、論客からの問題提起。それを巡っての反論、激論。その先に見えてくる「共有地平」。それが今、真剣に求められていると思う。少なくとも「負けたとて、それがどうした風が吹く」というような唯我独尊的な姿勢は捨て去らねばならないと思う。