「硝酸デモ事件」でよみがえる記憶

若林盛亮

「50年目の証言-赤軍だった私たちから」という本が今年の秋に出版される。「よど号赤軍」の私たちも一文を寄せる。大越輝雄という方の一文を読んだ。その中に、‘68年8月、京都のデモで右翼か誰かが投げた硝酸で背中に大火傷を負って病院に運ばれた、という記述があった。当時、新聞記事にもなった「事件」だ。

「おお、あのときの硝酸デモ事件か!」

実は私もそのデモで硝酸を浴びた。ヘルメットに当たってこぼれ落ちた硝酸で右頬から鼻先にかけてちょっとした火傷を負ったが、皮膚を焼く酸の強烈な臭いとヒリヒリする痛みは今も身体が覚えている。もしヘルメットがなかったら、私の「命より大切」だった長髪、そして顔がケロイド状態で台無しになるところだった。「何くそ」とデモは最後まで続行した。

組織に属さない私は、デモ終了後、知り合いの勤める木屋町の喫茶店に駆け込み懇切丁寧な緊急看護を受けて事なきを得た。今も私の鼻のてっぺんには小さな凹みが残っている。それは「小指の思い出」ならぬ私の青春時代の記憶、「鼻先の思い出」だ。

この大越輝雄という名前も「思い出」の中にある。当時、私の通ったジャズ喫茶「しあんくれ~る」には夜に民青に学生会館を追われた立命全共闘系のドラッグ仲間らが来ていた。彼らから「大越」という名前をよく聞いた。彼らの口ぶりからは愛されてる人物だなという印象だった。

今回のご本人の文章で知ったが、あの「二十歳の原点」の高野悦子さんと日本史学科で同学年、同クラス、そして指導的活動家として彼女に対していた人物だということもわかった。

翌年11月初旬、私は1月の東大安田講堂で逮捕され保釈後、赤軍派参加となって上京したその日、「大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派逮捕」があり、救援をやることになった。その救援対象として「隊長・大越輝雄」の名前と再会することになった。「おお、あの大越か、彼ならありそうなことだ」と感慨を新たにしたのを覚えている。

「硝酸デモ事件」の記述から、‘68年夏以降、ますます熱を帯びる政治闘争に青春の血をたぎらした記憶、そして懐かしい名前がよみがえってきた。