以前は何も知らない僕の質問に答えていただきありがとうございました。
日本は今冬ですが北朝鮮は寒いですか?
僕は映画が好きなのですがおすすめの映画があったら教えて欲しいです(^o^)
若林さん。前回のメールでは若林さんが北朝鮮に来た歳が23歳のときということで僕の歳と合わせて自分のことを話してくれたことに感じるものがありました。
当時23歳だった若林さんはどうゆう夢を持っていましたか?
皆さんが日本に帰りたいという思いはやはり日本で生まれて育ったから当然の気持ちだと思います。
帰国について色々な人達から賛否両論ある と思いますが負けないで下さい。
帰国することができたら是非一度お会いしたいです?
変なメールでごめんなさい。
小さい子どもが送るような内容ばかりですがまたメールしてもよろしければメールさせて頂きます
また幾つか質問をさせて頂きます。
①皆さんが北朝鮮に行かれたあと共産主義者同盟赤軍派は他の組織と融合して連合赤軍となったことを知りました。
そして仲間同士で殺しあうという山岳ベース事件が明るみにでましたがかつて自分達がいた赤軍派としてどう思いましたか?
②連合赤軍事件で行われていた暴力という総括は共産主義者同盟赤軍派のときの総括と同じ意味ですか?
若林盛亮さん。以前メールを送ったとき最後に暖かい言葉を頂きましてありがとうございました。
若林さんが朝鮮に行った歳が今の自分と同じ歳ということでもし僕が今の歳で朝鮮に行ったら不安で不安で仕方ないと思いました。でも23歳のときの若林さんは今の僕よりもとっても強いお方だと感じました。
身体を壊さないようにこれからもお元気に生活してください。
他の皆さんもお元気に生活を送って下さい。
最後にホームページに貼ってある動画で皆さんが食べていた冷麺とても美味しそうでした。
また気になることがあったらメールさせて頂きますので宜しくお願いします。
若林盛亮がお答えします。
ご指名を受けて「よど号」当時、23歳の若林がいま23歳を生きる貴方の質問に答えさせて頂きます。
①おすすめ映画について
<答>
私も映画が好きで高校生の頃から京都の映画館によく通ったものです。
日本にいた頃、見た映画で今も記憶に残るのは、「シベールの日曜日」(仏)、「アルジェの戦い」(仏)、「太陽がいっぱい」(仏)、TVで見た古い映画「オルフェ」(仏)も印象的、またミュージカル映画「ウェスト・サイド・ストーリー」(米)のストリート・ダンスがカッコよくて何回も見ました。
オードリー・ヘップバーンのファンだったので「ローマの休日」、「ティファニーで朝食を」(主題歌“ムーンリバー”の流れるニューヨークの早朝、ティファニー・ショウウィンドウの宝石を前にクロワッサン&コーヒーの朝食をとる冒頭シーンが印象的)などを、また高3時代、「抱きしめたい」に衝撃を受けたビートルズの「A Hard Days Night 」「Help」は同じくビートルズ狂いの「同志」と何度も映画館に足を運びました(これは映画観賞というより動画のビートルズを見るため)。またショーン・コネリーのジェームス・ボンドがカッコよくて「007」シリーズ最初の2作もけっこう好きでした。
最近の映画はよく知りませんが、BS放送で見たとても切ない愛と義の映画「蝉しぐれ」(日)、オペラ仕立ての歌曲が素晴らしい「オペラ座の怪人」(米)にはとても感動しました。
②23歳の頃の夢は何でしたか?
<答>
23歳になった頃(HJ直前)はすでに学生運動真っ只中、夢は「革命家になる」、私にとってよど号HJ-渡朝は「革命家への飛翔」というところ、しかし政治運動に入る前は多くの青春がそうであるように「自分の夢がわからない」人生模索、「自分の頭で考えることから始める」紆余曲折の青春でした。
この辺の詳しいことは、昨年末発刊の「追想にあらず」(講談社エディトリアル)の第1章に書いた「ライク・ア・ローリング・ストーン」の項目を読んでいただければ幸いです。
③連合赤軍事件をどう思ったか? 共産主義者同盟赤軍派のときの総括と連合赤軍の「暴力という総括」は同じ意味のものだったのか?
<答>
日本にいた頃は「総括」という言葉をあまり聞いた覚えがなく、連合赤軍で初めて使うようになったと思います。ただ他党派から迫られる「自己批判せよ」という言葉はありましたが、それは他の党派をたたくためのもの。
「総括」の本来の意味は、自分の過ち、失敗を「どこに問題があったのか」を真摯に振り返り、教訓を汲み取って欠陥を克服し前進していくための自己批判、批判であるはず。いわば人間の自力更生力の源ではないでしょうか。前進しようと思う人なら誰もが多かれ少なかれやることだと思います-「失敗は人間に優しい」-とも言いますよね。前に話した「人間は鋼鉄より弱い、しかし鋼鉄よりも強い、それは・・・」ということ。
連合赤軍「仲間殺し」事件の「総括」については、先述の「追想にあらず」、第1章に私が書いた「革命家への飛翔」項目中にある「連合赤軍“事件”はよど号“赤軍”の延長にあった!」の項をぜひお読みいただきたいと思います。それは他人事ではない、自分たち「よど号“赤軍”にもその思想的要因はあった」という視点から考えたものです。
④23歳で朝鮮に渡って不安でなかったのか? 「若林さんはいまの僕より強いと感じる」について
<答>
「朝鮮に渡る不安」というより「よど号ハイジャック闘争」を成功させる、勝利させることが先決だったので、朝鮮に渡る不安は当初、頭には浮かびませんでした。しかしながらソウル金浦空港からピョンヤンに向かう機中での「どんよりした不安」はいまも記憶に生々しいものです。
HJ成功なのだから、「やった!」と浮き立っていいはずなのに、なぜか心がとても重かったし、悪天候も重なってなにか説明のつかない、どんよりとした気分にどんどん落ち込みました。三泊四日の攻防の緊張感が解けた虚脱感だったのか、これから向う「北朝鮮」で待ち受けるものへの不安感だったのか、いまもよくわかりません。おそらくこれからはなんの当てもない「北朝鮮」に行くのだという現実、次の目標実現さえまったく不透明なことなどが私を打ちのめしていたのでしょう。私はその厳然たる現実にいやおうなしに向き合うことになったのです。
「国際根拠地建設のためわれわれは北朝鮮に飛び立つ」! 勇ましく言ってきたことと、ピョンヤンに向かう心の中は裏腹でした。
当時の私の人生哲学、それは「いま渡った吊り橋を切り落とす」、一言でいえば「退路を断つ」-今、自分にはこの飛躍が必要だと決心したのだ、これをやらなかったら一生後悔するだろう、ならば「思い切って飛ぶ」、そんな感じのものでした。しかし自分が想定もしない現実の中にいざ飛び込んでいくとなると、それがいかに不安なことであるかを私はかみしめざるをえませんでした。
「退路は断たれた、いや、断った!」のだ。もう引き返すことはできない地点、「北朝鮮に向かうよど号」機内に私はいたのです。
ピョンヤン到着後、不法入国を咎められることもなく簡単な事情聴取の後、三日間ほどピョンヤン・ホテルにいたと思いますが、その時はもう不安は消えていました。私の胸にはなぜか不安感よりも期待感がまた大きく膨らみ始めたことを覚えています。